愛媛県大洲市のかつて新谷藩の金蔵があった場所と同じ通り沿い、少し西寄りに大きな屋敷があります。塀の長さは100mはあろうかという豪邸ですが、こちらは新谷出身の豪商「池田貫兵衛」の邸宅跡です。
新谷地域に関するエピソードは、以下リンクの記事でもご紹介しています。
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【新谷藩陣屋跡・金蔵跡】お城は無いけれど大名が居たことを示す遺構
—– 記事に登場する主な地名・単語
大洲(おおず)
新谷(にいや)
樟脳(しょうのう)
木蝋(もくろう)
—– 記事に登場する人物
池田貫兵衛(いけだかんべえ / 1842~1907)… 商人。現・愛媛県五十崎の庄屋の家に生まれる。16歳の時に新谷の池田家の養子となり、商人として頭角を現していった。 ※本文参照
池田貫兵衛という人物
池田貫兵衛は、天保13年(1842) 新谷藩内で生まれ、16歳の時に池田家の養子となり、医師を志して長崎で学ぶが、藩命により帰還、医学の道を断念した。
時は長く続いた鎖国が終わり、諸外国との貿易が始まった頃。その時節を読み、横浜や神戸で貿易商として頭角を現していった。
茶や樟脳の取引で一定の成功を収め、神戸を拠点に
第65銀行頭取(現・三井住友銀行の前身の一つ)
阪鶴鉄道設立委員会(現・JR福知山線)
神戸電灯社長(かつて存在した神戸市電の源流)
など、明治後期の神戸の有力企業において、軒並み重役を務めた。
中でも神戸電燈の設立は、東京電燈に次ぐ日本で二番目に設立された電力会社で、日本の電力史にもその名を残す存在となっている。
地元・愛媛においては、新谷が属する喜多郡内で生産される木蝋を精製して輸出したり、砥部で生産される陶器の輸出を行うなど、郷里の産業振興にも貢献した。
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樟脳(しょうのう)
樟(くすのき)から抽出される、ハッカのような独特の臭気を持つ物質。衣類の虫除けや湿布薬のような外用医薬品に用いられる。医薬品名カンフル。
クスノキは温暖な地域にしか生えないと言われ、日本領当時の台湾ではクスノキのプランテーションが行われるなど、戦前の日本は世界最大の樟脳生産国。塩やたばこ等と同じく日本専売公社によって樟脳の専売が行われていた(→1962年廃止)。
樟脳の買い付けが転機に…
ある日、貫兵衛の夫人が台湾に出向き、樟脳の買い付けを行った。しかしながら樟脳を積んだ船が暴風に遭い、不幸にも難破してしまう。買い付けた樟脳の大部分を失い神戸に戻ってきた。
だが当時、国内で樟脳は希少品。僅かに残った樟脳が高く売れ、巨額の富を得た。そのお金を原資に郷里に屋敷の建造を計画、完成したのがこちらの邸宅です。
屋敷の完成は明治35年(1902)。
工事で雇われる人夫の賃金は 8銭程度が相場のところ、こちらの工事に関しては12銭支払われたという。大勢の人夫・職人たちが池田邸建設に関わり、資材が惜しみなく投入されたことにより、新谷では貫兵衛景気が起こったと郷土史に記録されている。
完成を祝して新谷村全ての家にお酒が配られ、盛大な餅まきが行われた。祝賀の行事は一週間に亘って行われたという。
イギリス積み煉瓦建造物は何に使われていたものでしょうか。池田貫兵衛が拠点とした港町・神戸が新谷にやってきた雰囲気。
現在の池田邸は…
繁栄を誇った池田家だが、貫兵衛はこの場所に長く住むことはなく明治40年(1907)に神戸で亡くなった。
現在、敷地の三分の一は大洲市の管理になっているが、いくつかの老朽化した建物は取り壊され、荒れるに任せる状態となっています。
【「池田邸」 地図】