19番札所立江寺を出発し、難所である二つの遍路ころがしへ向かっていく途中。新旧の県道28号が合流する地点の道路脇に、大阪と神戸の住民多数の寄進によって建立された中務茂兵衛晩年の標石が残されています。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面>
右(袖付き指差し)
鶴林寺
左(袖付き指差し)
立江寺
施主
大阪市南区
●● ※氏名多数
鶴林寺→20番札所鶴林寺(かくりんじ)
立江寺→19番札所立江寺(たつえじ)
別の面でも見ることができる特徴ですが、こちらの標石には大阪・神戸在住の多くの人物の氏名が記されていることから四国八十八ヶ所、もしくは茂兵衛さんのファンであることが推察されます。
200度目を越えて建立されているものなので、茂兵衛さん自身の知名度も高かったのではないでしょうか。時代が進み庶民の生活に余裕が出てきていることも石の建立に好作用しているように感じます。
標石の右面に表記されている内容
<右面>
四國十二度目為供養
神戸市湊町
施主
●● ※氏名多数
巡拝回数が書いてあるので一瞬茂兵衛さんの面かと判断しそうになりますが、施主さんたちの巡拝回数のようです。正面は大阪、当面は神戸の住民の氏名が数多く記されています。
「12度目」とありますので定期的に団体で参拝しているのかもしれません。心なしかこちらの面で見ることができるお名前(下の名前)は女性が多いように感じられるのですが、何か理由があるのでしょうか。
神戸市湊町→現・兵庫県神戸市兵庫区湊町1丁目・2丁目付近
神戸駅と新開地駅の間に位置する街区で、その名の通りかつて港があった場所と思われます。
今日「神戸」「港」と言うとハーバーランド。すなわち三宮駅の南にある神戸港が連想されますが明治以前の市街地や港は兵庫にありました。日米修好通商条約(1858年)で開港することになった五港「函館・新潟・神奈川・兵庫・長崎」にも神戸ではなく兵庫と記されています。横浜も神奈川です。
それぞれ開港地に若干修正が生じたことについて諸説あることと思いますが、兵庫と神奈川に共通しているのが開港以前から都市として発達していた点が挙げられます。既に街が整備されている場所へは新たな港湾施設を建設することが難しく、開港によって異国人(外国人)が在来民の生活空間に入ってくることにより生じる軋轢を避けたことが考えられます。
それによって兵庫は神戸へ。神奈川は横浜へ。その微修正については条約締結国からは約束を守れとの声もあったようです。しかしながらどちらも開港地になるまでは小さな漁村だったものが急速に発展して日本のみならず世界を代表する国際港へ成長したことは、結果的に理に適っていたといえます。逆にその時代に「神戸」「横浜」と申し出ても「もっと有名なところを開港してくれ」となっていたかもしれませんね。
兵庫と神奈川は同エリアの街としては「神戸」「横浜」が圧倒的に有名になりましたが、どちらも県名に旧来からの地名が冠されています。
標石の左面に表記されている内容
<左面>
弐百十八度目為供養
周防國大島郡椋野村住
願主 中務茂兵衛義教
中務茂兵衛「218度目/279度中」の四国遍路は自身63歳の時のものになります。
標石の裏面に表記されている内容
<裏面>
明治四十年十一月建之
明治40年は西暦1907年。
同年10月19日に大阪府下に箕面有馬電気軌道(みのおありまでんききどう)が開業しました。同社は現在の阪急電鉄。発祥は現在の宝塚本線(※宝塚へ繋がったのは後年)であり石橋駅(現・石橋阪大前駅)から分岐する箕面線になります。社名に有馬とついているように当初は集客が見込める有馬温泉まで路線を伸ばす計画もあったようです。
明治40年(1907) 箕面有馬電気軌道
大正7年(1918) 阪神急行電鉄
昭和18年(1943) 京阪神急行電鉄
昭和48年(1973) 阪急電鉄
開業時の社名についている「軌道(きどう)」とは道路を走る列車。すなわち路面電車の事を指しますが、このことは当初鉄道建設にあたり既に省線(現・JR)が開通しているところに新しく鉄道を作ると競合を生む。そのような理由等により鉄道敷設の許可は下りにくいか、とても時間がかかったようです。
しかしながら都市内の移動を主目的として運転される軌道列車の許可は下りやすかったようで、関西人気質「機運を逃さない」も手伝ってか(解釈の上では)路面電車として開業させます。それから徐々に路線を伸ばしたり併用軌道(=道路と鉄道の共用)を廃して鉄道専用線を整えるなど普通鉄道としての体裁を整えていきました。現在は阪急阪神ホールディングスとして同じグループ企業になっている阪神電車や日本一の営業路線を持つ近鉄、関東では京成も軌道発祥です。
標石には大阪・神戸の両都市で暮らす方々の名前が記されていますが、彼らが暮らす街は都市間鉄道開業等の追い風を受けてますます発展していきます。そんな過渡期にあって四国遍路のような癒しの旅が必要とされたのかもしれませんね。
【「小松島市櫛渕の新旧県道23号の合流地点にある中務茂兵衛標石」 地図】