【83番札所一宮寺→84番札所屋島寺】栗林公園隣接の寺院に移設された中務茂兵衛標石

香川県高松市の中心部にある有名観光地「栗林公園」近くの「観興寺」に中務茂兵衛標石が残されています。キャリア前半の古い時代のものですが状態が良く、石から読み取ることができる情報量が豊富です。

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観興寺の中務茂兵衛標石_熊野神社前

観興寺境内にある熊野神社前に金毘羅燈篭と並んで立つ中務茂兵衛標石。

 

標石が立っている場所

観興寺_稲荷山のふもと

標石が立っている観興寺は、栗林公園と同じく稲荷山のふもとに位置しています。

栗林公園南隣にファミリーレストランがありますが、その間にある路地に進入して西へ進むと突き当りに寺院があります。

観興寺

行基により開かれ空海が改修を行ったと伝わる観興寺。

観興寺は「かんこうじ」と読みます。真言宗御室派に属する寺院で不動明王が祀られています。その本堂横、方角でいえば北隣の、上の写真で鳥居が見えている熊野神社境内に標石が立っています。

 

標石の裏面に表記されている内容

観興寺の中務茂兵衛標石_裏面

標石を見つけてまず目に入るのがこちらの面ですが、当面は裏側に当たります。

通常の標石紹介:正面→右面→左面→裏面
当標石の紹介順:裏面→左面→正面→右面

現地で目にする順序と記載内容の展開上、今回はこのような順序で紹介させていただきます。

観興寺の中務茂兵衛標石_石清尾

石清尾は「いわせお」と読みます。


<裏面上部>

石清尾


高松市の総鎮守または氏神として市民に親しまれている「いわせおさん」こと石清尾八幡宮(いわせおはちまんぐう)のことを指すものと思われます。その神社は、こちらの石がある観興寺や栗林公園の後背に当たる稲荷山(標高166m)の北側のふもとにあり、山越えをせずとも山裾に沿って反時計回りに進めば行くことができます。
社名の由来は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、現・京都府八幡市)の分霊を当地に勧請した際に、社名の「石清水」と地名の「亀ノ尾」を合わせて「石清尾」になったようです。石清水八幡宮の分霊を祀る話は各地にあり、四国八十八ヶ所霊場では57番札所栄福寺が同社に由来する寺院です。
豊臣政権時代に高松を治めたのが生駒親正(いこまちかまさ)で、城を築き城下町を整備します。その際に鎮守として定めたのが石清尾八幡宮。同社に寄進を行うなど高松の守り神として崇敬されるようになりました。
親正にとって石清尾八幡宮は大切な存在だったようで「石清尾山は高松を護る要害になるので木を切ってはいけない」と遺したほど。後年、生駒家由来ではない家臣団がその遺言を破って石清尾山の木に手を付けたことで生駒家の家臣団との間に対立が生じます。その諍いが幕府に伝わり他にも様々な不祥事が発覚して世に言う生駒騒動(いこまそうどう)となったわけです。その歴史を動かした地が石清尾八幡宮なのです。
※生駒騒動については、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【法泉寺】法泉寺に祀られている生駒家のその後

観興寺の中務茂兵衛標石_壱岐島

壱岐島の離島住民らによる寄進であることがわかる。


<裏面下部>
壹岐國壹岐郡可須村
勝本港大久保栄一●●
發願人●●●


壹岐國壹岐郡可須村勝本港(いきのくにいきぐんかすむらかつもとこう)→現・長崎県壱岐市勝本町勝本浦(ながさきけんいきしかつもとちょうかつもとうら)

長崎県の離島・壱岐島(いきのしま)。九州北部沖の玄界灘に浮かぶ位置柄、対馬と共に朝鮮半島と九州とを結ぶ海上交通の中継地として知られていた島で、日本史への登場は早く、魏志倭人伝が書かれた弥生時代に一支國(いきこく)として紹介されています。中世にはモンゴル帝国・高麗軍の侵攻を受け島内に大きな被害が出ました。世に言う「元寇(げんこう)」文永の役1274年・弘安の役1281年です。

勝本港はそんな壱岐島の最北部に位置します。港を見下ろす丘の上に勝本城がありますが、そちらは豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、その前線基地として築いたもの。建物は二度の戦役(文禄の役1592年、慶長の役1597年)の後に取り壊され、現在は石垣だけが残されています。
壱岐の歴史を眺めていると、日本と大陸との友好の架け橋というよりは攻めたり攻められたりの戦乱の舞台になってきたことが特徴の一つでもあります。こちらの標石が立てられた頃は、朝鮮半島の覇権を巡って隣国との戦争が相次ぎましたが、その時の壱岐はどんな様子だったのでしょうか。

左面で記しておりますが、茂兵衛さんの巡拝回数が浅い時期に建てられた石なので、こちらの寄進者さんたちと茂兵衛さんにどのような繋がりがあったのか気になります。確証はありませんが、中務茂兵衛標石を調べていると、比較的早い時代の石で肥前國(現在の佐賀・長崎)とその付近の離島がたびたび登場するような気もします。

表記としては少数派である「發願人(発願人)」の表現については、表し方が一定ではない早い時代に建てられたことが理由であるように思います。

 

標石の左面に表記されている内容

観興寺の中務茂兵衛標石_左面

表記が定まっていない頃の記載情報が見どころの左面。


<左面>
壹百度目為供養
周防國大嶋郡椋埜村
施主 中司茂兵衛建之


中務茂兵衛「100度目/279度中」の四国遍路は自身44歳の時のものになります。

巡拝回数100度を見ると「キャリアが浅い時代のもの」と書いてしまいますが、100回それも徒歩で回るには仮に1年で4周しても25年必要。今も昔も一般人にはできるものとは思えませんが、茂兵衛さんだと通過点と思えるのが不思議であり魅力です。

表記が定まっていない点がこちらの標石の見どころの一つですが、

大嶋郡→後年は大島郡の表記が多い
椋埜村→9割以上は椋野村の表記
中司→「中司」を見ることができるのは初期の標石限定で9割以上は「中務」の表記

周防大島で続く茂兵衛さんの本家は、現在も「中司」のようです。茂兵衛さんの四国遍路を始める以前の氏名は「中司亀吉」。故郷を出て一度も家に帰らなかった茂兵衛さんにとって「中務茂兵衛義教」を名乗り続けたことは、決意の表れであると共に四国で新しく生まれ変わったという自己表現なのかもしれません。

 

標石の正面に表記されている内容

観興寺の中務茂兵衛標石_正面

一番伝えたい情報が大きく表されるのは初期の標石の特徴。


<正面>
右(袖付き指差し)
高野山出張處道


高野山出張處→現・高野山讃岐別院

高松市築地町にある真言宗寺院を指すものと思われます。

高野山出張所の開創→明治16年(1883年)
中務茂兵衛が故郷を出た→慶応2年(1866年)

つまり茂兵衛さんが四国遍路を始めた時にはまだ高野山出張所は存在しません。

高野山出張所が開かれる前年、茂兵衛さんは高野山へ行き弘法大師像を求めたことが記録されています。それが高松の高野山出張所と関係することかどうかまでは不明ですが、時期に重なりがあるので、もしかしたら高野山出張所の開創に携わり、その後は標石への情報記載を通じて後進のお遍路さんに高野山出張所の巡拝を勧めた可能性がありそうです。

ここまで標石を見てきて、こちらの石が建立当初は異なる場所に建立されたのではないかという推測がたちますが、となるとそれはどこなのか。
観興寺へ進入する「室町」の交差点やや東に五差路があります。大小異なる幅の道路と斜めに交差する道がいかにも歴史を秘めているといった感じですが、この地点は国道11号・旧32号・旧金毘羅街道が交じり合っている地点。おそらくこの付近にこちらの石は建立されたのではないかと考えます。
もう少し突き詰めると、その五差路の北北東に現在は歩道橋が架かっている変則交差点がありますが、その地点は金毘羅街道・仏生山街道の分岐点。広義的な意味ではそれぞれ伊予土佐と阿波、すなわち讃岐から四国各國にわかれていく地点ともいえます。
標石は分岐地点に立てられることが多いので、当初建てられたのは街道のわかれ又であるその場所ではなかろうか。そして後年に行われた交差点の再整備によって観興寺境内へ移設された。様々なパターンを考察しながら付近を歩いていて、その歩道橋に上がった時にピンときました。現在標石と並んで立っている金毘羅燈篭も旧街道由来かもしれません。

いずれにせよこちらの石に記されている四国八十八ヶ所関連の情報は茂兵衛さんの巡拝回数だけで、前後の札所名や距離などは全く記載されていない珍しい標石であることは間違いありません。

 

標石の右面に表記されている内容

観興寺の中務茂兵衛標石_栗林公園南西角

標石が立つ神社から墓地を挟んでフェンスと木々が見えるのが栗林公園で、位置的には同園敷地の南西角と隣接しています。


<右面>
明治二十一年五月吉辰


明治21年は西暦1888年。
同年12月3日愛媛県から分離独立する形で香川県が誕生しています。つまり標石建立時この地の住所は愛媛県香川郡でした。

廃藩置県によって明治政府の預かりになっていた栗林荘が県立公園「栗林公園」として公開されたのが明治8年(1875年)3月のこと。徳川家と関わりが深い施設であったため破却の可能性もあった中で同園が存続できたことは、明治以降の高松の発展には欠かせない重要な局面になりました。
ただしこの時代は香川県は存在せず名東県(みょうどうけん)の管轄。徳島を中心として淡路島と香川が一つの県として運営されていました。今では想像ができませんが、この時代の徳島は都市人口では全国10位につける四国一の都市でした。一般開放された県立公園としての栗林公園は、徳島の管理下で始まったことはあまり知られていません。

明治4年(1871年)8月 (第一次)香川県設置
明治6年(1873年)2月 名東県に編入
明治8年(1875年)3月 旧栗林荘が県立公園「栗林公園」として一般開放
明治8年(1875年)9月 分離により(第二次)香川県設置
明治9年(1876年)8月 愛媛県に編入
明治21年(1888年)12月 分離により(第三次)香川県設置 ※現行
明治23年(1890年)2月15日 高松市が市制施行

※栗林公園の歴史に関しては、以下リンクの記事でもご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【栗林公園】四国を代表する庭園はなぜ公園と呼ばれているのか

 

中務茂兵衛標石は100年以上前に建立されたもので、現代とは道路事情が大きく異なり、今回ご紹介した標石のように元あった場所から大きく移動されているであろうものも多くあります。標石に記載されている内容や、建立当時の道や土地の史料から、標石が立てられていた場所やどのような役割を果たしていたのかを想像するのも、標石を調査するひとつの楽しみでもあります。

 

【「観興寺の中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。