【高知県東洋町甲浦】江戸を東京と改めた江藤新平の捕縛の地

四国八十八ヶ所霊場巡礼において土佐國への入口となる高知県東洋町甲浦。現在は港に架かる橋とバイパスによって街を通らず過ぎてしまう感が否めませんが、旧道を進むと明治時代初期に起きた歴史の1ページに触れることができます。

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甲浦港

甲浦港(かんのうらこう/高知県東洋町甲浦)

 

県境の街・甲浦

甲浦 案内板

甲浦は高知県東洋町の中心地です

甲浦は「かんのうら」と読みます。昭和34年(1959)7月、甲浦町・野根町が合併して発足した高知県安芸郡東洋町(こうちけんあきぐんとうようちょう)の中心部で、四国八十八ヶ所霊場巡礼においては、徳島県海陽町から県境を越えて高知県に入った玄関口の街です。

前後の札所としては、

23番札所薬王寺(やくおうじ)

24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)

になります。

東洋町は高知県の市町村の中で最も東に位置する自治体。藩政時代は藩境となる街だったことから、宍喰(阿波)/甲浦(土佐)それぞれの街に出入国の取り締まりを行う番所が置かれていました。
※番所に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。

【古目大師】宍喰住民による涙の別れと徳島県最南所に位置する霊場

現在は自家用車移動の人の多くが甲浦港に架けられた国道55号・甲浦大橋(一枚目の写真の道路橋)を通るため、旧来の市街地を通らず通過してしまいます。
歩き遍路でも県境の水床トンネル(みとことんねる)を出た地点で市街地へ下る道を選択しなければ、車両と同じ甲浦大橋経由の道順になります。

歩き遍路に限っては県境(國境)を越える古道が残されていて、通行することが可能です。
※古目峠の古道に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。

【阿佐國境「古目峠」】國境の古道で峠を越えて土佐へ入る

またこちらの地域では、道路・線路の両方を走行することができる「DMV(Dual Mode Vehicle)」の試験運行が行れていて、成功すると世界初の実用化事例となるため注目されています。
※DMVに関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。

【阿佐海岸鉄道「DMV(Dual Mode Vehicle)」】四国最小の鉄道事業者に間もなく登場する世界初の乗物

 

このように、掘り下げていくと、四国遍路に関係有る無しに関わらずいくつも話題を挙げることができる場所ですが、前出の案内板で取り上げられている「江藤新平君遭厄地」についてみていきたいと思います。

 

江藤新平と佐賀の乱

江藤新平君遭厄地の碑

江藤新平君遭厄地(えとうしんぺいくんそうやくのち/高知県東洋町甲浦)

こちらの石碑がある場所は甲浦の旧街道沿いの甲浦小学校の向かい。大きく目立つ日露戦争の慰霊碑があり、その敷地の南東角にひっそりあるのが江藤新平と甲浦との関わりを伝える碑です。

江藤新平 肖像

江藤新平(えとうしんぺい/1834-1874)

肥前國佐賀郡(ひぜんのくにさがぐん、現佐賀県佐賀市)生まれ。佐賀の七賢人(さがのしちけんじん)の一人に数えられる人物。慶応3年(1867)の大政奉還の後、佐賀藩の代表として副島種臣と共に新政府に参加。戊辰戦争の戦功により名を上げ、その後法整備など民政分野において活躍。近代国家に不可欠な憲法の制定を目指した。

※佐賀の七賢人
・鍋島直正(なべしまなおまさ/1814-1871)…佐賀藩第10代藩主。天保5年(1834)、城下に建てた医学館は現在の佐賀県立病院好生館の原型
・佐野常民(さのつねたみ/1823-1902)…明治10年(1877)博愛社を創設。明治20年(1887)に日本赤十字社に改称
・島義勇(しまよしたけ/1822-1874)…札幌市街地の設計を行った「北海道開拓の父」
・副島種臣(そえじまたねおみ/1828-1905)…現在の佐賀新聞の題字は本人によるもの
・大木喬任(おおきたかとう/1832-1899)…第2代東京府知事(事実上、初めての東京政務を行った人物)
・江藤新平(えとうしんぺい/1834-1874)…明治政府で司法制度の整備に努める。江戸を東京と改めた
・大隈重信(おおくましげのぶ/1838-1922)…第8代・第17代内閣総理大臣。「早稲田大学建学の父」

今日我々の誰もが知る「東京」の地名は、慶応4年(1868)閏4月1日、江藤新平・大木喬任らが佐賀藩論として江戸から東京に改めるよう岩倉具視(いわくらともみ/1825-1883)に進言したものとされます。
※詳しくは後述します。

契機になったのは「明治六年政変(1873)」
清国に従属する李氏朝鮮の扱いを巡って、留守を任された政府(西郷隆盛、板垣退助、江藤新平ら)と世界を見て来た岩倉使節団(岩倉具視、木戸孝允、大久保利通ら)が対立。武力をもって朝鮮を制圧する征韓論派の前者が敗れ、議員の半数となる約600人が職を辞することになった出来事。その中に江藤も含まれていた。

政変の後、同郷の島義勇と共に佐賀に下野。当時士族たちの間では四民平等の政策が取られたことにより特権を失った士族らの不満がくすぶっており、当初は佐賀における不平士族らの不満をなだめるために佐賀へ向かった。しかしながらその流れを変えることができず士族反乱の党首になり、明治7年(1874)2月に不平士族らによる武装蜂起である佐賀の乱が発生する。

鰻温泉

江藤新平が逃れた薩摩の鰻温泉(うなぎおんせん/鹿児島県指宿市)

乱は大久保利通(おおくぼとしみち/1830-1878)率いる政府軍に迅速な動きにより、佐賀軍を圧倒。一ヶ月弱で鎮圧され島・江藤は鹿児島へ逃れた。島は島津久光(しまづひさみつ/1817-1887)を頼って大久保利通へ謝罪と助命を申し出たが受け入れられなかった。
※島津久光→明仁上皇の高祖父(こうそふ、祖父の祖父で5代前)にあたる人物

福村邸

鰻温泉で静養している西郷の元へ江藤が訪ねてきたことを伝える案内板

江藤は同じく明治六年の政変で政府を離れ鹿児島で静養している西郷隆盛(1828-1877)を訪ね、薩摩士族を動かしてもらうよう申し出たが受け容れられず、宮崎を経由して四国土佐へ渡ることになります。
※私のサイト【そらうみ旅犬ものがたり】内に、鰻温泉を旅した時のことを紹介しています。

湯けむり上がる、せごどんゆかりのひなびた温泉地<鰻池/鹿児島県指宿市> http://soraumi-doggie.com/pondunagi/

江藤新平 来歴

江藤新平は司法卿(しほうきょう)として、主に法整備の分野で日本の近代化に寄与した

土佐へ渡った江藤は旧知の人物らと会談の場を設け武装蜂起の必要性を説くが、受け容れられることはなかった。

そこで上京し岩倉具視に直接陳情を行うことを企図するも、阿佐國境近いこの場所で捕縛された。この逮捕の決め手になったのが指名手配写真。それは江藤自身が司法卿時代に整えた制度で、皮肉にも江藤が被適用者第一号になった。

佐賀の乱の鎮圧後、

熊本…神風連の乱(じんぷうれんのらん/1876年10月)
福岡…秋月の乱(あきづきのらん/1876年10月)
萩…萩の乱(はぎのらん/1876年10月)

と九州を中心に不平士族らの武装蜂起が起こり、

鹿児島…西南戦争(せいなんせんそう/1877年2月)

に至った。

いずれも新政府軍に鎮圧され、結果的に西南戦争が今日に至るまで日本における最後の大規模内戦になっています。

 

江藤新平は佐賀で蜂起した当時、
「自分らが武装蜂起を行えば全国各地で不満を抱く不平士族が次々と後に続くはず」
という目論見があったようですが、佐賀の乱の次に発生した大規模戦闘が約1年半後の神風連の乱だったあたり、乱を起こすにはやや時期尚早だったのかもしれません。

また立ち向かった相手が内務卿(ないむきょう)・大久保利通という内閣制度発足前の最高権力者。新政府設立当時から江藤と大久保は仲が悪く、その確執や私情が働いて乱後の処分が取り調べや釈明もろくに行わず梟首刑(きょうしゅけい)となり、晒し首に処された写真が当時の新聞に掲載されるなど国家への反逆者として徹底的に辱められました。

その冷遇は江藤の出身である佐賀県の処遇にも表れていて、現行の佐賀県は明治16年(1876)5月の成立ですが、

明治4年(1871)旧7月…(第一次)佐賀県成立 ※旧佐賀藩領域
明治4年(1871)旧9月…厳原県(いずはらけん)との合併により伊万里県 ※現在の佐賀県+長崎県対馬
明治5年(1872)旧5月…改称により(第二次)佐賀県
明治5年(1872)旧8月…旧厳原県を長崎県に編入 ※現佐賀県域とほぼ同じ

明治7年(1874)2月…佐賀の乱

明治9年(1876)4月…三潴県(みずまけん)に合併 ※現在の福岡県南部にあった県
明治9年(1876)8月…三潴県の廃止により、旧佐賀県全域を長崎県に編入
明治16年(1876)5月…長崎県から分離。(第三次)佐賀県 ※現行

当初は幕末に歴史を動かした「薩長土肥(さっちょうどひ)」の一つに数えられる雄藩だったにも関わらず、佐賀の乱後は県政運営が許されない状況に置かれるなど冷遇を受けました。他県の一部となっていた期間は郷土の発展が停滞してしまったのは言うまでもありません。

結果的に、安定した県政スタートラインに立つまで第三次までいき難治を要した点は香川県と同じですが、要注意とされていた対象はそれぞれ異なります。

香川県…旧幕臣
佐賀県…不平士族

※香川県の置県時の歴史は以下リンクの記事でもご紹介しています。

【栗林公園】四国を代表する庭園はなぜ公園と呼ばれているのか

 

江戸を東京と改めた人物

東京湾

船上から眺める東京湾景

今日我々が広く触れている「東京(とうきょう)」の地名。藩政時代に「江戸(えど)」と称されていた都市名を現在の東京に改めるよう岩倉具視に働きかけたのは、明治政府時代の江藤新平です。

明治になり天皇の御在所に相応しい都市についての議論が行われ、最有力とされていたのは大坂。京を政治から切り離すのは皆が必要性を叫ぶところだけれど、かといっていきなり遠く離れた江戸まで行ってしまうのも…という感じでしょうか。実際、最大のライバルである大久保利通は浪華遷都(なにわせんと)を進言しています。

江藤の案は江戸を「東(ひがし)の京(みやこ)」と定め東京に改称。やがて開通する鉄道を利用して天皇が東西両都を行き来することによって、人心を捉えることができるというアイデアだったようです。

東京…平野が広い、旧幕府の施設が数多くあり転用できる。歴史が浅いためここで首府が移ると寂れるおそれがある、ほか
大坂…土地があまり広くなく、既に市街地が形成されている。数百年にわたって築かれてきた社会構造が存在するので都の有る無し関わらず存続できる、ほか

かくして明治天皇は東京に移り、東京という名称を含め江藤らの案が採用されたことになります。

奠都(てんと)…新しく都を定めること
遷都(せんと)…都が別の場所へ移ること

この出来事を行うにあたり、明治政府は「東幸(とうこう)」の名を用いました。京を中心とする多方面に気を遣っての事と言われています。
本来、江藤らが進言した内容は「奠都」であり、京→東京への首都移転までは企図したものではないように思います。しかしながら時が流れるとともに政治機関は東京へ移り、京で行われていた祭礼の多くが東京で行われるようになっていきました。
実態は東京への「遷都」「首都移転」だったのですが、奠都なのか遷都なのか。現在に至るまで正式な表明は行われていません。

 

敬称「君(くん)」

江藤新平遭厄地の石碑

江藤新平「君」と記されている点

「君(くん)」とは敬称の一つ。社会の中では部下に対して君付けで呼ぶ場面が思い浮かびますが、現代の感覚に置き換えると良くも悪くも「上から目線」な印象を受ける感じは否めません。パッと見、この石を建てた人はなんか偉そうやなあと感じてしまいます。

「君」
の敬称が誕生したのは幕末。
萩の吉田松陰(よしだしょういん/1830-1859)の提唱という説があります。

叔父から引き継いだ私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」では武士だけではなく、商人、農民など当時存在した身分制度の垣根を越えて一堂に教育が行われていましたが、そこで問題になったのが「敬称」

武士→農民…殿(どの)
農民→武士…様(さま)

「万民は平等」
の精神を説く上で敬称に上下があっては豊富な議論を行う上で障害になります。

そこで考え出された敬称が「君(くん)」
塾生たちが対等かつ敬意を込めて呼ぶことができる方法として画期的だったそうです。

その精神が現代に受け継がれているのが国会。中継を見ていると進行者が名前を呼ぶ際に「内閣総理大臣●●君」と「君付け」である点が印象的ですが、これは議長が決して偉ぶって呼んでいるわけではありません。
この慣例は明治23年(1890)11月29日に開催された第1回帝国議会(国会の前身)から受け継がれているもの。時の内閣総理大臣は山縣有朋(やまがたありとも/1838-1922)。議会の進行を務める貴族院議長は伊藤博文(いとうひろぶみ/1841-1909)。両者とも最終学歴は松下村塾であり、対等な立場で広く議論を行うことができるよう、その教えを議会での敬称に採用したようです。

日本の有名男性アイドルグループ事務所でも、お互いを呼ぶときは先輩・後輩関係なく「●●君」と呼んでいる場面を見ることができます。このケースは歴史偉人に由来するものではない気がしますが、その精神は似ているように思います。

 

「江藤新平君遭厄地」の石に話を戻すと、江藤は国家に対する反逆者とされ子孫らは逆賊(ぎゃくぞく)の汚名を着せられました。目上か目下かでいえば、一族全体が誰よりも目下の扱いです。

大久保利通は江藤に死刑判決が出た際、
「江東醜体笑止なり、今日は都合よく済み大安心」
と呼び捨てした上で意図的に誤った名前の漢字を用いて罵倒しています。

歴史の流れにより不遇な最期にはなりましたが、この石に関しては江藤を同朋と見ている者が揮毫したものなのかな、と感じます。江藤を見下していたなら「君」さえつきません。

江藤新平の賊名は、明治22年(1889)の大日本帝国憲法公布に伴う大赦令によって解かれました。

 

【「江藤新平遭厄碑」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。