【76番札所金倉寺→77番札所道隆寺】五差路に二つ並んである中務茂兵衛標石(東側)

76番札所金倉寺から77番札所道隆寺に向かう道中、遍路道と旧街道が重複している五差路で見ることができる一対二基の中務茂兵衛標石。東側にある標石は茂兵衛さん88度目の巡拝を記念した最初期のもので、旧街道の案内が記されています。

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多度津町五差路の一対二基の標石 北側より

五差路の左右に一つずつ残されている標石

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容

多度津町五差路の一対二基の標石(東側) 正面

大きな指差しが目立つ正面

<正面>
左(指差し)
道隆寺道

道隆寺→77番札所道隆寺(どうりゅうじ)

こちらの標石は、五差路の西と東に対(つい)になる形で立っています。

西の石…金倉寺・金毘羅→南・西の方角の情報
東の石…道隆寺・丸亀→北・東の方角の情報 ※この石

元々その目的で建てられたものかは定かではありませんが、それぞれの石に担当の方角が割り振られているように思います。

 

標石の右面に表記されている内容

多度津町五差路の一対二基の標石(東側) 右面

いくつか見慣れない漢字が用いられている

<右面>

丸亀
八十八度目為供養
周坊国大島郡椋埜村
願主中務茂兵衛立之

中務茂兵衛「88度目/279度中」の四国遍路は自身42歳の時のもの。

「周坊国大島郡椋埜村」「立之」という表記が他ではあまり見ることができない表記です。
前者の読みは同じ「すおうのくにおおしまぐんむくのむら」ですが、後者は「りつのう」でしょうか。

多度津町五差路の一対二基の標石(東側) 右面上部

こんぴら五街道同士を連絡する道だった

いくつかの特徴がある東の標石ですが特筆すべきは「右 丸亀」という点。この場所は五差路で、主流となる情報は「北…多度津方面」「南…善通寺・琴平方面」。そこに「東…丸亀方面」の情報が加えられ、想像力をかきたてられる石になっています。

標石に従ってこの道を右(東)に向かって進むと、満濃池から流れてきた金倉川(かなくらがわ)を「金倉橋(かなくらばし)」で渡り、更に東へ進むと「丸亀市中府町(まるがめしなかぶちょう)」付近で「金毘羅街道/丸亀街道」に合流します。丸亀港に上陸してこんぴらさんへ向かう場合はこの場所を通ると遠回りになるため、城下から南へ直行するルートが設けられていました。
丸亀街道は本州からこんぴらさんへの最短ルートではあるけれど、中間にこれといった見所があるわけではありません。なので場合によっては多度津街道へ回って善通寺や金倉寺に寄り道して、ということもあったようです。この地点と丸亀市中府町を結ぶ道が、両街道を結び旅の内容を盛り上げる連絡線の役割を担っていました。

旧街道の名称についてですが、一般的に向かう方向に応じて名称が変化します。
丸亀→琴平…金毘羅街道
琴平-丸亀…丸亀街道
この道に関して単独の名称を用いるとすれば「金毘羅往来(こんぴらおうらい)」ですが、それよりは金毘羅街道の方が一般的です。

 

標石の左面に表記されている内容

多度津町五差路の一対二基の標石(東側) 左面

最初期に建てられた標石の一つ

<左面上部>
明治十九年
三月大吉辰

明治19年は西暦1886年。同年同月、帝国大学令が公布され東京大学が「帝国大學」に改称されています。また、この時代、香川県は存在せず愛媛県の一部でした。

中務茂兵衛標石の最初期の一つ。西側にある石を含めこれまで目にした最初期の石と同様、明治19年(1886)3月に建てられています。

多度津町五差路の一対二基の標石(東側) 左面下部

繊維産業が盛んな街の人物が施主になっていることが多い

<左面下部>
丹波國何●郡
●家●●村産
●●●●三郎

丹波國(たんばのくに)→現・京都府中部、大阪府北部、兵庫県北東部

これに続く「郡」の部分が判別が困難。「何」の字が見えるので、「何鹿郡(いかるがぐん)」のようにも思いますが、いまいち確証が持てません。仮に何鹿郡とすると繊維産業が盛んな綾部(あやべ)を中心とする地域になります。
西側にある標石の施主の住所は児島(こじま)で、ここも繊維産業が盛んな街。石に施主の職業まで記されているわけではないのですが、この時代勢いのある産業が何だったかを物語っているように感じられます。
※施主が何鹿郡綾部村の標石は以下リンクの記事でご紹介しています。

【76番札所金倉寺→77番札所道隆寺】繊維産業の街の寄進者らによる中務茂兵衛標石

なお、この時期はまだ市制や町村制が施行されていないので、今で言うところの「自治体・市町村」の概念はありません。代わりに明治11年(1878)7月に制定された「郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう)」により各郡に郡役所が置かれ、長である郡長とその上位に位置する各府県知事が地方自治にあたっていました。それでは範囲が広過ぎるということで細分化されたものが後の市制・町村制であり、現在の「自治体・市町村」の概念です。
一般的に市町村より郡の方が範囲が広大ですが、現代は市町村合併によって旧郡内が一体となる市町村合併が行われる場合があります。例えば滋賀県湖西に位置する高島市は、ほぼ旧高島郡がそのまま現市域。すなわち明治時代前期に高島郡が治めていた範囲に戻った、といえます。ちなみにこの「高島」は、大手百貨店「高島屋」の由来です。

 

標石の裏面に表記されている内容

多度津町五差路の一対二基の標石(東側) 裏面

短歌形式の添句を見ることができる

<裏面>
まよふみ越遠し江天登婦壽立石の古の与盤於露可極楽能み知
(まようみを おしえてとおす たていしの このよはおろか ごくらくのみち)

添句がある標石は他にもいくつか見ることができますが、前期は「5・7・5・7・7」が多く、後期になると「5・7・5」形式を多く見ることができます。
短歌形式の添え句も、前期の標石の特徴の一つといえます。

※五差路に残されているもう一方の標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

【76番札所金倉寺→77番札所道隆寺】五差路に二つ並んで立っている中務茂兵衛標石(西側)

 

【「多度津町五差路の一対二基の中務茂兵衛標石(東側)」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。