香川県高松市にある栗林公園は日本を代表する庭園の一つなのですが、なぜ「公園」と呼ばれているのでしょうか。栗林公園の成り立ちや歴史からこの呼称の謎にせまります。
栗林公園の起源
「紫雲(しうん)」
とはおめでたい兆しとされる雲で、人が臨終を迎えると紫雲に乗って阿弥陀如来が現れ故人を極楽へ導くとされるもの。
高松を治めた大名の時代を、
生駒家…江戸時代以前
松平家…江戸時代以降
と大きく二つの時代にわけることができますが、一般的には栗林公園を造営したのは後者の松平家と記されていて、間違いなさそうです。しかしながら現在地の整備を始めたのは前者の生駒家のようです。
庭園内に水が豊富な理由
高松市街地の航空写真を見ると街の中に大きな山塊があることがわかりますが、こちらが紫雲山。正確には山全体を「石清尾山塊(いわせおさんかい)」といいます。紫雲山があるのは東(右)に突き出た部分で、
「稲荷山(いなりやま/166m)」「室山(むろやま/199m)」
の二つを合わせた総称が「紫雲山」になります。
初代藩主・生駒親正(1526-1603)が「有事の際は国を守る要害になるから木を切ってはならぬ」と言い残したのがこちらの山。その遺言を無視して山の木を切ったことで歴史が動いた…の山です。
※生駒騒動に関しては以下リンクの記事でご紹介しています。
その紫雲山の右側。平地部分に緑の区画がありますが、こちらが栗林公園です。生駒家が治めていた当時、紫雲山の西側を流れる「香東川(こうとうがわ)」は流れを山に遮られる形で東西に分流して海に注いでいました。現在の栗林公園付近は香東川が東に分かれた流れの中にあったわけです。
栗林公園には大小様々な池があり、雨が少ない香川県にあって水を豊富にたたえていることに疑問を感じるところですが、元々この場所が川だったので香東川の流路が変更になった現在も伏流水として湧き出ているのが理由です。その場所は庭園南東角(この絵図では左下)の「吹上(ふきあげ)」と呼ばれる地点になります。
そこに手を加えたのが生駒家の時代、藤堂高虎の家臣であった「西嶋八兵衛(にしじまはちべえ/1596-1680)」。寛永14年(1637)、香東川堤防の付け替え工事に着手。川の流れを現在とほぼ同じ西側に統一しました。
その際に東側の流路跡地に庭園を築いたのが、栗林荘(現栗林公園)の起源。しかしながらこの時期には生駒騒動と呼ばれる生駒家vs藤堂家の家臣団同士の争いが起きていたため、庭園は発展することなく松平家に引き継がれることになります。
同時期、1637年の出来事として島原の乱が発生しています。
完成に100年を要した大名庭園
寛永19年(1642)5月、高松松平藩初代藩主・松平頼重(まつだいらよりしげ/1622-1695)が常陸國(ひたちのくに、現在の茨城県)から入封しました。その頼重公の代に栗林荘が完成したかといえばそうではなく、
第2代・松平頼常(まつだいらよりつね/1652-1704) ※徳川光圀の子
第3代・松平頼豊(まつだいらよりとよ/1680-1735) ※松平頼重の孫
第4代・松平頼桓(まつだいらよりたけ/1720-1739)
第5代・松平頼恭(まつだいらよりたか/1711-1771)
と、歴代藩主によって少しずつ庭園が整えられていき、第5代藩主・頼恭在位中の延享2年(1745)に現在に近い形に整えられたことが記録されています。栗林荘の造営がいつから始まったのか。どの段階で完成とみるかは諸説存在するところですが、仮に頼重公入封の1642年着工・1745年完成とすると100年以上の月日を要していることになります。
目まぐるしく所管が変わった香川県
明治2年(1869)…版籍奉還により栗林荘は国の預かりになる
明治4年(1871)…(第一次)香川県設置
明治6年(1873)2月…名東県(みょうどうけん、現徳島県)に編入
明治8年(1875)3月…栗林荘が県に払い下げられ「栗林公園」として公開
明治8年(1875)9月…分離により(第二次)香川県誕生
明治9年(1876)8月…愛媛県に編入
明治21年(1888)12月…分離により(第三次)香川県誕生 ※現行
江戸時代の高松藩は初代藩主が徳川家康の孫という、譜代大名の中では御三家(水戸・尾張・紀伊)に次ぐ存在。明治新政府としてはその扱いに非常に手を焼いたことは、目まぐるしく隣県に編入・分離を繰り返した点や、結果的に最後に誕生した県という点等に見ることができます。
わかりやすく言えば、
高松は旧幕府色が強いので新政府からするとその色を徹底的に排除したい。小さい県だから運営の都合ということにして隣と一緒にしてもいいんじゃないか?とりあえず徳島と一緒にしとこう。
…そしたら徳島と香川でもめにもめた。このままでは徳島の発展に悪影響があるから元に戻そう。でも今独立させると旧幕臣たちが何するかわからないな。じゃあ今度は愛媛とだったらどうかな。
…一緒にしてみたら旧香川県の人たちに不満はあれど、前の時みたいに反対運動を起こすほど勢いがない。弱体化に成功!これで丸く収まったかな。
…けれど時間が経つにつれ香川の街が廃れてきた。これはまずいな。幕府色といっても明治維新からもう20年も経っているので、その勢力も弱まっているかな。だったら独立させても大丈夫かな。よし、香川県独り立ちさせよう。
私の想像はこんな感じですが、さてどうでしょう。
その流れを勘案すると、栗林荘は松平家のお殿様が年月と手をかけて造り上げた豪華庭園で、権力の象徴でもあるわけです。明治新政府からするとすんなり新時代に引き継ぐわけにはいきません。一旦は国が預かることにします。
国の預かりになってしまった栗林荘。まずいな、このままじゃ高松が誇る名園が取り壊しになってしまうかもしれない。さてどうしたものか。
…栗林荘は誰でも利用することができる場所、その名も栗林「公園」としてみてはどうだろう。
…みんなが使うことができる公園?だったらOK!
経緯については私の想像ですが、この時代に持って行き方がまずかったら栗林公園は破却されていたかもしれません。
日本三名園と栗林公園
「日本三名園(にほんさんめいえん)」
というものがあります。日本国内にある特に名が知られる大名庭園の三傑。
偕楽園(かいらくえん/茨城県水戸市)
兼六園(けんろくえん/石川県金沢市)
後楽園(こうらくえん/岡山県岡山市)
この中に栗林公園は入っていません。あくまで栗林公園は誰でも使用することができる「公園」。庭園にあらずということなんでしょうね。
明治43年(1910)に文部省が発行した「高等小学読本巻一」の一節において、日本を代表する庭園は前述の三つであるけれど、栗林公園の木石の美しさは日本三名園より優れていると表記されています。
外国のガイドブックでも軒並み高評価を得ていて、例えば平成21年(2009)に発行されたフランスのミシュラン社のガイドブックには「わざわざ訪れる価値のある場所」として「★★★/3つ星」の評価です。
なお偕楽園がある水戸藩の第2代藩主は「徳川光圀(とくがわみつくに/1628-1701)」。フィクション作品で有名な「黄門さま」こと水戸黄門であり、高松藩初代藩主・松平頼重の弟です。家の事情により兄ではなく弟が実家を嗣ぐことになってしまいますが、両家とも現代においても評価されている名園を築いていることから「築園の名兄弟」といえそうです。徳川バリバリの偕楽園が明治以降も庭園として存続できたのは…また調べてみたいと思います。
Park→Gaden
高松の道を走っていると「栗林公園」と書かれた行先・距離標識を色んなところで目にすることができますが、よく観察してみるとローマ字表記の部分が「Ritsurin Garden」とシールで修正されていることがわかります。以前は「Ritsurin Park」と表記されていました。
前述の通り、栗林公園は誰でも利用することができる「公園」に名を変えることで存続することができた面があります。英語の名称もそのことに合わせてきました。来園者の多くが日本人の時代は「公園?ちょっと違うよね」と思いながらも、特に問題はなかったように思います。
しかしながら訪日外国人が増え栗林公園に様々な国の方々が訪れるようになると、次第に「park」と思って訪れた外国人がなんか違うよ?「garden」があるなら行きたかったという、実情にそぐわないという意見が出るようになりました。そのような意見を取り入れる形で公式表記が改められたのが、こちらの修正部分になります。
常磐橋
栗林公園東門、一般的な正門にあたる部分に「常磐橋(ときわばし)」と刻まれた石の橋があります。この橋については次のページで触れたいと思います。
※常磐橋に関しては、以下リンクの記事に続きます。
【「栗林公園」 地図】