愛知県の知多半島には、日本三大新四国霊場とされる「知多四国霊場」の巡礼の文化が根付いています。のちにこの霊場の誕生につながることになる、弘法大師空海に関する伝承をご紹介します。
日本三大新四国霊場「知多四国霊場」
愛知県の知多(ちた)半島には、弘法大師空海ゆかりの寺院がたくさんあり、四国の八十八ヶ所霊場になぞらえて、88ヶ所の寺院と開山所・番外霊場の10ヶ所を加えた98ヶ所の寺院を巡る「知多四国霊場」の巡礼文化が根付いています。
長い歴史があり、多くの巡礼者を迎え入れていることから、九州の篠栗四国八十八箇所、瀬戸内海の小豆島八十八ヶ所霊場とともに「日本三大新四国霊場」とされています。
知多半島に弘法大師空海信仰が広がり受け継がれてきたきっかけともされている伝承がありますのでご紹介したいと思います。
空海が感じた四国と知多半島の共通性
平安時代の弘仁5年(814年)、空海が旅の途中で知多半島を訪れます。
現在の愛知県三河地方から海路で知多半島の東側を南下し、南知多町の大井の浜に降り立ちます。
空海は、知多半島の景色や気候が、慣れ親しんだ四国に似ていたことにたいへん驚かれました。「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島 かけて 四国ならん」と歌を詠んだとも伝わっています。
【「聖崎上陸大師像」 地図】
空海が知多半島で行った加持祈祷
空海は浜に降り立ってから、行基菩薩が創建した医王寺(いおうじ)と、さらに西の岩屋寺(いわやじ)に向かいます。
寺の和尚は空海の電撃訪問に驚きますが、その当時、唐(現代の中国)から帰国した空海のことは全国に知れ渡っており、丁重なおもてなしをされたといいます。昔の寺院は政治と深く関わっていたので、空海が天皇との関係も深かったことで広く情報が伝わり、特別な対応がされていたと考えられます。
医王寺では滞在期間中に護摩行7日間、岩屋寺では奥ノ院の洞窟で100日間におよぶ護摩行を修法されたと伝わっています。
自然災害や流行病、飢餓などの災難は、たたりや怨霊の仕業としてたいへん恐れられており、これを鎮めるために加持祈祷を行うことは、僧侶の重要な役割のひとつです。天皇と関係が深い高僧の空海が、地域のために加持祈祷を行ってくれたのですから、和尚や地域住民はこの様子をたいへんありがたく見守っていたそうです。
空海は岩屋寺で護摩行後に出た灰を全部集め、千手観音像つくり、既にあった行基菩薩が刻んだとされる聖観音菩薩像の中に入れられたと伝わります。この聖観音菩薩像は、空海が護摩行を行った奥ノ院の御本尊となっており、現在は岩屋寺本堂にて大切に保管されています。
今回ご紹介した空海に関する伝承はごく一部で、知多半島には他にも空海に関係する多くの言い伝えがのこっており、寺院や地域住民に大きな影響を与え、弘法大師空海信仰が根付いていくことになります。
さらにこのような信仰・文化が、のちの知多四国霊場の誕生につながっていきます。
※知多四国霊場の誕生に関するエピソードは、以下リンクの記事に続きますので、ぜひこちらもご覧ください。
【知多四国霊場】開創を成し遂げた三開祖の強い想いと大きな苦労・努力のエピソード