【備讃瀬戸】現代アートで世界中から注目されている瀬戸内海の多島美

香川県と岡山県の間に広がる瀬戸内海の海域は「備讃瀬戸」と呼ばれ、たくさんの島が浮かぶ多島美が特徴です。近年は現代アートの取り組みが広がり、島の風土とあわさった他に類を見ない魅力が、世界中から注目されています。

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瀬戸内海にたくさんの島が浮かぶ「備讃瀬戸」

瀬戸内海国立公園は、昭和9年(1934年)に日本で初めての国立公園に指定されました。国立公園とは、日本を代表する優れた自然の風景地を保護し、利用の促進を図る目的で、国が指定した自然公園です。

瀬戸内海とその沿岸の広範囲にわたる瀬戸内海国立公園のうち、「備讃瀬戸(びさんせと)」と呼ばれるエリアは、岡山県と香川県の間の本州と四国が最も近接する海域で、東は小豆島、西は笠岡諸島・荘内半島までの海域をさします。 塩飽(しわく)諸島、 直島諸島などの多数の島々が浮かぶ多島海です。
昭和63年(1988年)に車道と鉄道が通る本四架橋瀬戸大橋が開通しました。瀬戸大橋の橋げたになっている塩飽諸島の大半の島は香川県に属しています。江戸時代に樽を海に流して藩境すなわち県境を決めたという伝説が残っていますが、樽流しを提案した岡山側の人物が変化する潮の流れを読みまちがえ、多くの島が現在の香川県に属することになったという話です。
本島を中心とする塩飽七島は古くから塩飽水軍の本拠地で、操船技術にとても優れた水軍であったことから、中世には豊臣秀吉の手厚い保護を受け、大名に準ずる人名(にんみょう。船方衆のこと)として領地と自治を認められ、江戸時代も続きました。 本島には自治組織の勤番所(きんばんしょ)の跡が残り、笠島地区は重要伝統的建築物群保存地区になっています。フロイスやシーボルトが寄港したという記録もあります。塩飽諸島に住んでいた人々は船大工の技術を活かし、家や宮の塩飽大工となり、幕末に初めて渡米した咸臨丸(かんりんまる)の水夫としても活躍しました。

江戸時代までの日本人には、瀬戸内海は一つのまとまりある海域ではなく、和泉灘、播磨灘、周防灘などのいくつかの灘が連なるエリアとして認識されていました。「瀬戸内海」という名称は「The Inland Sea」の翻訳語として明治時代初期頃から用いられ始めます。広域の内海であることを欧米人に教えられたからです。欧米人が内海を表す語に定冠詞をつけただけで、「セト」をつけなかったのは、当時は瀬戸内海全体を表す地名がなかったことを意味しています。欧米人の評価がピークに達した明治時代後期には、日本人の間にも新しい瀬戸内海の見方が普及していきます。 日本人もまた、近代的風景観を受容して、多島海、内海、海岸といった自然景観や、段々畑、港、集落といった人文景観を賞賛し始めました。日本人に備讃瀬戸や芸予諸島などの瀬戸内海の新しい風景が見えてきたのです。

そして、この頃に日本人は世界に誇る瀬戸内海を自覚し、「世界の公園」と称するようになりました。瀬戸内海の価値を重要視した著名人のうちの一人に香川県出身の小西和(こにしかなう)がいました。小西は、明治44年(1911年)に自然地理や人文地理などのさまざまな分野から瀬戸内海を論じた大著「瀬戸内海論」を著しました。その巻頭に、新渡戸稲造(にとべいなぞう)が 「瀬戸内海は世界の宝石」と賛辞の小文を寄せていました。小西は瀬戸内海を「世界の公園」にすべきだと主張し、風景を保護しなければならないと論じていました。やがてこの考えは国立公園の誕生へと結実していきます。現代で私たちが瀬戸内海の美しい風景を楽しめる一因となったといっていいでしょう。

 

備讃瀬戸を一望できるビュースポット「屋島」

備讃瀬戸エリアを一望できるスポットとして、本州側からは岡山県倉敷市の鷲羽山(わしゅうざん)などが知られていますが、四国側の香川県からはやはり高松市の屋島(やしま)からの眺望が格別です。
屋島は、高松市の北東部に位置する、硬質の溶岩に覆われた平坦面が侵食された丘です。南北に長い台地状の地形で、大きな屋根のように見えることからその名が付けられました。もちろん瀬戸内海国立公園に含まれる景勝地で、国の史跡・天然記念物にも指定されています。平安時代末期の源平の戦いの戦場になったことでも知られていて、当時は本土と海で隔てられた島で、埋立が進んだ現在は陸続きのような地形になっています。
屋島には、源平合戦の古戦場や屋嶋城跡など歴史的な見どころが多く、山上には四国八十八ヶ所霊場84番札所屋島寺があり、お遍路さんも巡礼に訪れます。山上からは、瀬戸内海の多島美を望み、市街地の夜景も楽しめるビュースポットです。
昭和時代に観光での来客がピークを迎えていた時期には、山上にアクセスするためのケーブルカーが稼働していましたが、平成17年(2005年)に廃止され、現在では屋島スカイウェイという道路で自家用車やシャトルバスでのアクセスがメインになっています。歩きお遍路さんも通る登山道など、いくつかの自然道もあるので、ハイキングにもおすすめです。
※屋島周辺の関連情報は、以下リンクのタグにまとめられていますので、こちらもぜひご覧ください。

タグ:84番札所屋島寺

備讃瀬戸_屋島

屋島山上からの備讃瀬戸の多島美と高松市街地の都市景観とのコントラストは絶景です。

 

世界中から注目されている現代アートと島の風土

2010年代ごろから、備讃瀬戸の島々はアートツーリズムで賑わっています。直島(なおしま)、豊島(てしま)、犬島(いぬじま)などの備讃瀬戸の多島海で繰り広げられる現代アートは、瀬戸内海の風景の豊かさも気づかせてくれます。風土とは、単なる環境ではなく、歴史性や文化性を内包していて、土地の豊かなおもむきをもっています。20世紀は、風土性を切り捨て、場所の記憶と物語をかき消し、壮大な都市文明を築き、いたる所を均質化してきた面がありますが、それとは違った世界観で島々が息づいています。

直島には島全体にアート作品が散りばめられており、草間彌生の作品「赤かぼちゃ・黄かぼちゃ」や、安藤忠雄が設計した「地中美術館」などがよく知られており、アート鑑賞に世界中から観光客が訪れるようになっています。
ベネッセアートサイト直島は、瀬戸内海の直島、豊島、犬島を舞台に、作品鑑賞を通じて主体的に考える場を提供することを目指し、一部の美術館で対話型鑑賞を導入するなど、様々なプログラムを提供しています。
直島が現代人の心をとらえてやまないのは、 直島に何よりも心にしみる普通の風景と過去とのつながりがあるからであり、それを現代アートの力が見事に表現したからでしょう。現代アートが、風土のもつ潜在力を引きだし、薄い平板な風景から奥行きと深みのある風景へと再生をなしとげたといえます。

備讃瀬戸_直島フェリー

直島にアクセスするフェリーは毎日多くの観光客を運んでいます。

豊島には、豊島美術館や瀬戸内国際芸術祭の作品など、さまざまなアートがあります。豊島の水の豊かさにちなむ水滴をテーマにした豊島美術館は、豊島の棚田の風景や豊島からの瀬戸内海の風景と共鳴しています。この美術館は、アーティストの内藤礼と建築家の西沢立衛によって設計されました。唐櫃(からと)地区の小高い丘に建設され、水滴のような形をした建物が特徴です。美術館の目の前に広がる棚田は、地元住民とともに再生されました。棚田は、水田に水をはった6月頃と、稲穂が頭をたれる11月頃が見頃です。 

備讃瀬戸_豊島_瀬戸内海

島からの瀬戸内海や本土の風景は、島の風土や情緒を感じさせます。

 

備讃瀬戸に浮かぶ多島がおりなす瀬戸内海の類を見ない風景は、先人の環境保護や価値の活用などの努力を経て、現代にもその多島美が受け継がれています。現在は、現代アートのエッセンスが加わることにより、より魅力を増した島々に世界中から観光客が訪れる注目のエリアになっていますので、遍路道中でぜひ島にもわたっていただき、四国の風土や文化の一端を体感してみてください。

※同じ備讃瀬戸エリアにある小豆島に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【小豆島寒霞渓】奇岩怪石の風景は日本三大奇勝・日本三大渓谷美

 

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この記事を書いた人

建築・不動産・旅のテーマが得意なライター。社寺系ゼネコンに勤務経験があり、四国八十八ヶ所霊場の札所建築物の改修工事に携わったことがあります。仏教に興味があり、2022年には四国のお遍路巡礼もしました。ライターとは別名義で作家として小説も書いています。