【琴電屋島駅】かつて屋島観光の起点となっていた近代化産業遺産の駅舎

屋島といえば高松市民にとっては特徴的なその形で、お遍路さんにとっては四国八十八ヶ所霊場84番札所屋島寺がある場所として馴染みある存在です。そのふもとにある琴電屋島駅はかつて屋島観光の玄関口として大いに賑わいました。

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琴電屋島駅 屋島遠景

かつて屋島観光の人々はこの駅で列車を下りて、背後に見えている屋島を目指しました

 

琴電屋島駅の位置

ことでん 路線図

ことでん路線図の赤い線が琴電屋島駅がある志度線

三つある高松琴平電気鉄道(以下、ことでん)の路線のうち、琴電屋島駅があるのは「志度線」。沿線には84番札所屋島寺(やしまじ)がある琴電屋島駅や、85番札所八栗寺(やくりじ)がある八栗口駅。86番札所志度寺(しどじ)がある琴電志度駅など。三路線の中で唯一海が見える路線です。運転されているのは他二路線と比べると車格が小さな列車で、路線の大部分でJR高徳線と並行しているため少し地味な存在ですが、古い歴史があります。

明治44年(1911)11月…東讃電気軌道(現・志度線)開業
大正5年(1916)12月…四国水力屋島遊覧電車の改称
昭和17年(1942)4月…讃岐電鉄に改称
昭和18年(1943)11月…讃岐電鉄・琴平電鉄・高松電気軌道が合併して高松琴平電気鉄道発足 ※現社名

高松電気軌道(現・長尾線)…明治40年(1907)4月開業
琴平電鉄(現・琴平線)…大正15年(1926)12月開業

ことでんでは平成23年(2011)に開業100周年記念事業が催されましたが、この「開業100年」は志度線の前身である東讃電気軌道(とうさんでんききどう)が開業した年をことでん全体の正史としてカウントしています。

 

近代化産業遺産の駅舎

琴電屋島駅 駅舎

琴電屋島駅(ことでんやしまえき/香川県高松市)

ことでんを構成する志度線の中間駅。現在も使用されているこちらの駅舎は昭和4年(1929)4月に屋島登山鉄道開業に伴って現在地に移転の上、新築されたもの。屋根は台形である屋島の形状を模したといわれています。

琴電屋島駅 駅舎 屋根

琴電屋島驛と記された駅名額

こちらの駅名が記された部分は「琴電屋島駅」の現駅名に改称された昭和25年(1950)当時のものであると思われます。枠が広く取られているのは、それまでの駅名が「屋島登山口駅」と現駅名より一文字多く、その字を収める必要があったのかなと思います。

時代的には、

驛島屋電琴
と右から記さる横書きでも良い気がしますが、実際のところどうなのでしょうか。右書き・左書きの変遷について少し考えてみたいと思います。

一般的に「横書きで右から書くのは戦前、左から書くようになったのは戦後」のような認識がありますが、それは誤りです。元々日本語の書き取りに横書きは存在しません。右から書く横書きは「縦書きを一文字ずつ改行した」という解釈になります。アピールが必要な看板や新聞の見出し等で用いらてきた古くから存在する手法です。

それが明治になり西洋からアルファベットが入ってくると当初はアルファベットを、

K
o
t
o
d
e
n
y
a
s
h
i
m
a

のように右から縦書きで表記していたようですがこれでは読みにくいので、現在の左から横書きに改められるようになっていったそうです。それに伴って文章のような小さな媒体では日本語も同じように左から横書きで記されるようになっていき、看板等大きな媒体では従来の右から横書き(正式には縦書き一文字改行)のままであるなど、右書き・左書きが混在する事態になっていきます。
それはいけないと動いたのは文部省で、昭和17年(1942)に横書きは左書きに統一する方針を打ち出します。しかしながらこの時点では拘束力はそれほどなかったことと、英米が用いる敵性言語と同じ表記なのがはばかられてあまり広まらなかったようです。もっとも同盟国のイタリア・ドイツはアルファベットで左書きなので、実際のところ政府にとってはとりあえず発表してみたけど今は戦争で手いっぱいだし、民衆にとっては今それ必要??のような感じだったのかもしれませんね。

戦後になり左書きにいち早く動いたのが読売報知新聞(現・読売新聞)。昭和20年(1945)12月31日の誌面に新年から横書きは左書きに統一することを告知、翌日実行されました。毎日新聞はそれから遅れること11ヶ月後。11月30日の朝刊で左書きに統一を告知。翌日実行されました。この時は誌面に「当用漢字」「新かなづかい」を採用することも告知されています。

例)
學→学
嶋/嶌→島
てふてふ→ちょうちょ
まゐりませう→まいりましょう
など

昭和21年(1946)10月に行われた当用漢字の制定によって6,000字→1,850字になったようですが、それまでの新聞を読みこなすためには相当知識がなければ理解できなかったのではないでしょうか。

話を駅名標に戻しますと当駅が琴電屋島駅に改められたのは昭和25年(1950)4月のこと。「驛」の表記はともかく、時代は既に横書きを右からではなく左から記すようになっていたので、「琴電屋島驛」のような大きな媒体が左から記されているのは、当時の最先端を踏襲したものだったのかもしれませんね。

琴電屋島駅 駅舎 内部 屋根

現代にも通じるモダンな内装

駅舎入口をくぐると内部は待合所と駅務室になっていて、天井が広く取られています。その天井に架けられている電灯の形状や木枠の窓、タイルの形は、内外共に当時としては例があまり無いモダンデザインが人目を引いたことと思いますが、

琴電屋島駅 駅舎 近代化産業遺産

経済産業省認定の近代化産業遺産

そこはしっかり評価されていて、経済産業省から平成21年(2008)2月に「近代化産業遺産」の指定を受けています。

選定理由は、
「社寺参詣や温泉観光・海水浴に端を発する大衆観光旅行の歩みを物語る近代化産業遺産群」

戦前人々が楽しみにしていた「観光」「旅行」における目的は、

・おまいり
・温泉
・海水浴

温泉こそ香川県では弱いものの、ことでんは見事にそれらの要素を抱き込む形で敷設されたことが分かります。屋島は「瀬戸内海国立公園」を構成する観光地として昭和9年(1934)3月に日本で初めて国立公園に指定されました。琴電屋島駅の現在地への移転やモダンな駅舎の新築、ケーブルカーの開業などはその動きを受けて準備されたものだったのかもしれません。

琴電屋島駅 改札

平成18年(2005)4月をもって無人駅化され、現在は常駐の駅員さんは居ません

駅自体も列車が発着する前後の時間以外は誰が居るわけではありません。広く取られた駅舎の出入口が、往時の屋島観光全盛時には列車を下りたお客さんが押すな押すなと行き来した名残でしょうか。

 

プラットホームに見ることができる歴史

琴電屋島駅 プラットフォーム

琴電屋島駅のプラットホームと瓦町方面

駅舎から出て歴史ある駅を観察します。琴電屋島駅では列車の上下行き違いを行うことが多いため、1番線・2番線が設けられています。
そのプラットホーム見ると下部が石積みでその上にコンクリートで増床されていることが分かります。志度線(の前身)が走り始めた時代は事足りましたが、後に導入された車両に合わせてプラットホームを嵩上げした事例です。

琴電屋島駅 駅舎 プラットフォーム

モダンな駅舎にはドーマー窓まで取り付けられている

2番線に来ると駅舎を背後から見ることできます。こちら側でも例によって開業時の低床プラットホームを確認することができます。現在の列車は見えているスロープより後方(左側)に停車しますが、一両編成で運転されている時代は駅舎前に停車していたかもしれません。
近代化産業遺産に指定されている駅舎ですが、屋島型の屋根の東西にはドーマー窓が備え付けられていることが分かります。ヨーロッパ建築に多い屋根裏等に光を取り入れることを目的として作られるドーマー窓ですが、これらの部分は利用客が使用する部分ではなく外観上美点になる部分。すなわち実用性に乏しいといえますが、そのような部分の意匠にまでこだわっているあたり、工事に携わった職人さんや電鉄会社の意気込みを感じます。

琴電屋島駅 プラットフォーム 下り線

下り列車がやってきました

志度線の主役は他二路線と違ってこちらの「高松琴平電気鉄道600形電車」。元々は名古屋市営地下鉄の車両です。
この時は天気絶好の土曜日午後ですが、列車から降りてくるのは住民らしき方々ばかりで、観光客の姿は見られませんでした。屋島観光はドライブウェイが無料になったこともあり、自家用車で行く観光地になって久しい感じです。

 

屋島観光の繁栄と現状

琴電屋島駅 出口 屋島遠景

琴電屋島駅の出口から屋島方面を眺めたところ

広く取られた道路の先に屋島。その山肌に筋が入ったように見える道がありますが、こちらがかつての屋島登山鉄道(屋島ケーブル)の軌道跡。往時の屋島観光の方々は琴電屋島駅で列車を下りてこの道を屋島の方へ向かって歩き、ケーブルカーに乗り換えて屋島山上を目指していました。
といってもそのケーブルカー駅は見えているほど近いようなものではなく、そこまでの道のりは若干の登り坂です。当初はこの場所にケーブルカーの駅を直結することも計画されたようですが、傾斜が違い過ぎるなどその計画は頓挫。ケーブルカー開業から廃止まで徒歩連絡を必要としました。広く取られた道路がその壮大な計画の名残と言えます。
運行されていたケーブルカーの定員は121名・平時20分間隔・所要時間5分。昭和35年(1960)には全国のケーブルカーの中で一番の売り上げを記録するほどの賑わいを見せ、特に大型連休などはケーブルカーに乗車するまで数時間待ちなんてことは日常的な光景だったようです。そこで来県者を待たせてはいけない、と整備された車道が屋島ドライブウエイ(現・屋島スカイウェイ)。昭和36年(1961)4月の開通によって屋島観光はより一層賑わいを見せますが、施設の老朽化や高額な通行料金が敬遠されて次第に屋島観光は衰退していきました。

ことでんバス屋島山上シャトルバス

屋島山上行きシャトルバス

平成16年(2004)10月15日の運行をもって廃止になったケーブルカーに代わって、当初は山上まで乗り合いタクシーによる代行輸送が行われていましたが、平成18年(2006)12月の新屋島水族館オープンに合わせて土日祝日限定で運行されたバスが好評を博して、平成19年(2007)からJR屋島駅の乗り入れも開始されて毎日運転になりました。現在は専用のラッピングバスが人々を屋島山上へ運んでいます。

ことでんバス屋島山上シャトルバス 時刻表

JR屋島⇔琴電屋島⇔四国村⇔屋島山上の運行ルート

屋島ドライブウエイが廃止になり料金所が解体されるとそこに「四国村」のバス停が追加され、公共交通機関による屋島観光ルートが確立されています。

ことでんバス屋島山上シャトルバス ことのちゃん

ことでんマスコットキャラのことのちゃんと屋島名物のタヌキのラッピング

2020年現在はコロナ禍の影響が大きくシャトルバスの便数が大きく減少している状態。その影響がいつまで続くのか不透明な部分がありますが、安心して旅行ができる日が待たれます。

※琴電屋島駅を起点に、かつては屋島山上に向かう交通手段のひとつだった屋島登山鉄道に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

【屋島登山鉄道・屋島登山口駅】昭和の平家物語と弁慶の立往生

 

【「琴電屋島駅」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。