愛媛県宇和島市にある「宇和島城」は、築城の名手・藤堂高虎による建造で全国に現存する12天守のうちのひとつです。江戸時代初期に入城した宇和島伊達家は大いに繁栄し、2代宗利が大改修した際の建築物的特徴が現在でもみられます。
現存12天守のうちのひとつ「宇和島城」
愛媛県宇和島市の「宇和島城(うわじまじょう)」は、全国に現存する12天守のうちのひとつとして有名です。宇和島市は、昔から愛媛県の南予(なんよ)エリアの中心地で、市内には四国八十八ヶ所霊場41番札所龍光寺や四国別格二十霊場6番札所龍光院があり、お遍路道中にも立ち寄りやすい立地です。
宇和島城の原型は、戦国時代に西園寺(さいおんじ)氏が築いたもので、そのころは板島丸串城(いたじままるぐしじょう)と呼ばれ、城主をおかずに侍大将などを派遣して守備させる番城(ばんじろ)程度の規模だったようです。
その後、天正13年(1586年)に小早川隆景(こばやかわたかかげ)の所領となりました。小早川隆景は毛利元就の三男です。豊臣秀吉に臣属し、四国平定に尽力した軍功によって、伊予国が与えられたことによります。
現在の地に天守を築いたのは、文禄4年(1595年)に7万石で入城した藤堂高虎(とうどうたかとら)です。築城の名人としてその名を残す人物ですが、戦国の世には豊臣秀吉の命で直臣となっていました。宇和島の地を与えられたのは、朝鮮出兵での活躍が評価されてのことでした。約6年をかけ、天守をはじめ、堀や石垣などを備えた城郭を完成させました。
高虎は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で徳川方につき、徳川政権へと時代が移り変わるなかで出世街道を歩みます。関ヶ原の戦功で伊予今治(現在の愛媛県今治市)を加増され、その後伊勢国津城(現在の三重県津市)へ転封となりました。
高虎以降の宇和島城は、富田信高(とみたのぶたか)を経て、元和元年(1615年)に伊達秀宗(だてひでむね)が10万石で入城します。秀宗は、仙台藩主伊達政宗(だてまさむね)の長男で、大坂冬の陣の戦功によって宇和島を拝領しました。
以後、宇和島伊達家9代の居城として明治維新まで続きました。文武両道を奨励した5代村候(むらとき)、幕末に蘭学や洋式兵学を積極的に導入した8代宗城(むねなり)といった名君を輩出しています。
太平の時代に宇和島伊達家により大改修された特徴的な城郭建築
伊達家2代宗利(むねとし)は、寛文4年(1664年)に城の大改修に着手し、寛文11年(1671年)に完成しました。そのときの代表的な建築物が今日にも現存する天守閣で、全国に現存する12の天守閣のなかのひとつで、国の重要文化財に指定されています。現存12天守とは、日本の城の天守のなかで江戸時代またはそれ以前に建てられ、現在まで残り保存されている天守のことです。この天守は太平洋戦争での戦火もくぐりぬけました。大きいお城ではありませんが、唐破風と千鳥破風がバランスよく配置された優美な形で、サイズ感も雰囲気も国宝に指定されている滋賀県の彦根城によく似ています。
注目したいのは、江戸時代も政権安定期になった太平の時代に建造された天守閣であることです。それゆえに3層3階の本瓦葺きの天守には、他の城郭に見られる石落としや鉄砲狭間など、防衛のための設備がほとんど設けられていません。そのため全体的に優美で女性的な印象を受けます。彦根城に似ていると感じるのはこのあたりも理由です。
屋根の形や反り、瓦や鬼瓦などの形など、四国八十八ヵ所霊場の寺院建築とも共通する建て方や屋根の形状ですので、お遍路道中でお寺のお堂とイメージを重ねあわせてみるのもよいと思います。
城郭のもっとも南の方にある式部丸あたりの石垣は「鎬(しのぎ)積み」という珍しいもので、石垣の隅石の角度が90度以上の広角に広がって積まれているものをいいます。
また、天守閣には式台があり、1階部分に唐破風で突き出した部分をさします。式台(しきだい)は、通常は御殿の建築物であり、他の城郭で天守閣に設けられた例はありません。これも平和な時代の城の特徴といえます。
北口の登山口には、江戸中期に建造された旧桑折氏の武家長屋門があります。昭和27年(1952年)に現在地に移築されたものです。ここから長門丸、雷門跡、藤兵衛丸などをたどり、本丸までは約15分のウォーキングです。
道中には、藤堂高虎が築いたと伝わる野面積(のづらづみ)の石垣や、深さ11mの井戸を郭として位置づけ重要視した井戸丸や、本丸跡の高石垣などの特徴的な遺構が残り、天守の周辺には櫓の跡などもあります。
※城郭建築の特徴や用語に関して、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【城郭建築の基礎知識④】城郭の普請と建造物の施工(用語解説)
宇和島伊達家の繁栄を現代に伝える城下町
宇和島城周辺の城下町には、江戸時代260年にわたって藩主を務めた伊達家に関するスポットが点在しています。
城のすぐ南には「伊達博物館」があります。豊臣秀吉の肖像画(展示時期は要問い合わせ) や、7代藩主宗紀(むねただ)の甲冑など、宇和島藩主伊達氏にまつわる文化財を公開展示しています。
伊達博物館の隣にある「天赦園(てんしゃえん)」は、伊達氏2代宗利が海を埋め立ててつくった浜御殿を7代藩主宗紀が改築して隠居所とした際の庭園で、国の名勝に指定されています。天赦園の名は「残りの人生を楽しむのを天も赦してくれよう」にちなんで付けられたといいます。
宇和島城は、現代にも天守閣がのこり、太平の江戸時代に大改修されたことがわかる特徴的な城郭建築要素をみることができます。宇和島伊達家の繁栄の歴史を現代に伝える貴重な史跡なので、城下町も含め、じっくりと散策してみると、街の歴史がよくわかると思います。
※宇和島城と並び、愛媛県南予エリアの拠点となる城であった河後森城と大洲城に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【河後森城】現代の景色と遺構からもはっきりわかる国境防衛拠点としての機能
【大洲城】「伊予の小京都」にある巨大な復元木造大天守と江戸時代再建の特徴的な櫓
【「宇和島城跡」 地図】