【大洲城】「伊予の小京都」にある巨大な復元木造大天守と江戸時代再建の特徴的な櫓

愛媛県大洲市の「大洲城」は、平成時代に復元された木造大天守が街のシンボルになっており、江戸時代再建の4つの櫓は国の重要文化財に指定されています。かつての城下町には歴史的建造物がたくさんのこり「伊予の小京都」と呼ばれます。

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復元された巨大な木造大天守が街のシンボル「大洲城」

「大洲城(おおずじょう)」がある愛媛県大洲市は、市内を一級河川・肱川(ひじかわ)が貫き、山に囲まれた盆地地形で、中心市街地は江戸時代に城下町として発展した名残の武家屋敷や、明治時代から大正時代にかけて繁栄した木蝋や製糸の地場産業の面影を残す建物などが現代に残っており、「伊予の小京都」と呼ばれます。

肱川を見下ろす小高い丘に建つ力強い大洲城天守は、平成16年(2004年)に復元された4層4階の木造大天守です。明治維新での取り壊しを免れましたが、建物の老朽化が進んだため、明治21年(1888年)に解体され、それから約1世紀余りの歳月を経て再建された天守は、江戸時代の天守雛形や、明治時代の古写真などの資料をもとに往時の姿をできるだけ忠実に復元したものです。現在では、大洲市のシンボル的存在にもなっていて、木造4階建ての高さ19.15mは、戦後に再建された木造天守のなかではもっとも高いものです。
復元された天守閣では、築城の様子を再現したジオラマや現天守閣再建の資料などが見られるほか、2020年7月からは復元天守に宿泊し、いろいろな歴史体験ができる「大洲城キャッスルステイ」が開始されたことで話題になっています。

大洲城_天守_台所櫓

向かって左側が、復元木造大天守で、右側が江戸時代再建の台所櫓。

 

江戸時代再建の4つの櫓は国の重要文化財

大洲城の歴史は、鎌倉時代末期に伊予国の守護・宇都宮豊房(うつのみやとよふさ)が築いた地蔵ヶ嶽城(じぞうがたけじょう)が始まりと伝わっています。その後、戦国時代の攻防を経て、戸田勝隆(とだかつたか)、藤堂高虎(とうどうたかとら)などが城主に任ぜられました。

江戸時代になり、慶長14年(1609年)に淡路洲本(現在の兵庫県淡路島洲本)から脇坂安治(わきざかやすはる)が入城します。城の大改修に取り組み、このときに4層4階の天守を築いたといいます。
脇坂安治は、もとは豊臣秀吉に属した武将でした。柴田勝家と戦った賤ヶ岳七本槍のひとりで、朝鮮出兵や小田原攻めでも活躍しています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で、石田三成の西軍から徳川家康の東軍に走りました。これにより、徳川政権へと時代が変わっても、脇坂家は安泰となりました。

脇坂氏2代のあと、元和3年(1617年)に伯耆米子(現在の鳥取県米子市)から加藤貞泰(かとうさだやす)が6万石で入封します。以後、明治の廃藩置県まで加藤氏13代の居城となりました。

加藤氏の時代の遺構として現代に伝えられているのが4基の櫓です。いずれも国の重要文化財の指定を受けており、そのうち「高欄櫓(こうらんやぐら)」と「台所櫓(だいどころやぐら」の2基が本丸跡に残り、天守とともに城郭美を見せています。
高欄櫓は2層2階、天守の南側に建ち、2階は高欄を備えた望楼式になっています。現存のものは万延元年(1860年)の再建です。
台所櫓は西側に建ち、やはり2層2階。安政6年(1859年)に再建したされたものが現存します。「台所」の名前を冠しているように、1階の3分の1が土間になっていて、炊事に利用できるようになっています。籠城など万一のときに備えての装備です。
この高欄櫓と台所櫓は、4層4階の天守とL字型に多聞櫓(たもんやぐら)で連結されており、内部の見学もできます。
「苧綿櫓(おわたやぐら)」は、二の丸跡に残り、肱川に望む2層2階の優美な趣の櫓で、天保14年(1843年)に再建されたものです。
三の丸跡に残るのが「南隅櫓(みなみすみやぐら)」です。江戸時代の三の丸には武家屋敷が並んでいたといいますが、現在は市街地となっていて、その一角の愛媛県立大洲高校第2運動場テニスコートの北側に南隅櫓が建っています。 2層2階で明和3年(1766年)に改築されたものです。

大洲城_天守_高欄櫓

天守とつながっている向かって右側が高欄櫓で、4つの櫓それぞれに特徴的な建築要素があります。

 

城下町の歴史が色濃くのこる「伊予の小京都」

大洲城の南東に広がる城下町は、現在は大洲市の市街地となっていますが、史跡がたくさんのこり、見どころが多くあります。

「おはなはん通り」は、幕末から明治時代の頃に建てられた土蔵や町屋が軒を連ね、「伊予の小京都」と呼ばれるのにふさわしい風情ある町並みです。 ちなみに「おはなはん」は昭和41年(1966年)に放映されたNHKの連続テレビ小説で、大洲市出身の女性が女手一つで子どもを育てながら成長していく姿を描いたもので、このエリアがロケ地になりました。

「おおず赤煉瓦館」は、明治34年(1901年)12月に大洲商業銀行として建築されたイギリス積みの赤煉瓦の建物で、屋根は和瓦を葺いた和洋折表の造りが特徴です。館内には赤煉瓦の資料などを展示するほか、特産品などの販売もしています。

「臥龍山荘 (がりゅうさんそう)」は、地元の豪商が明治30年(1897年)に、肱川を望む景勝地に建てた山荘です。臥龍院(がりゅういん)・不老庵 (ふろうあん)・知止庵(ちしあん)などの意匠を凝らした建物と趣深い庭園で構成されています。

 

大洲城の復元された木造大天守や江戸時代再建の特徴的な櫓、江戸・明治・大正時代の面影を残す城下町などを有効に活用していこうという動きが活発で、四国の中で特に注目される観光地になってきています。お遍路道中では、大洲市は通過都市で滞在時間が短いお遍路さんが多いと思いますが、じっくりと歴史探訪してみたいエリアです。

※大洲城と並び、愛媛県南予エリアの拠点となる城であった河後森城と宇和島城に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【河後森城】現代の景色と遺構からもはっきりわかる国境防衛拠点としての機能

【宇和島城】築城の名手・藤堂高虎による建造の現存12天守のひとつで宇和島伊達家の居城

 

【「大洲城跡」 地図】

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この記事を書いた人

建築・不動産・旅のテーマが得意なライター。社寺系ゼネコンに勤務経験があり、四国八十八ヶ所霊場の札所建築物の改修工事に携わったことがあります。仏教に興味があり、2022年には四国のお遍路巡礼もしました。ライターとは別名義で作家として小説も書いています。