【河後森城】現代の景色と遺構からもはっきりわかる国境防衛拠点としての機能

高知県と愛媛県の県境、愛媛県側の松野町にある「河後森城」は、国境の防衛拠点として長い期間重要視されていた城です。いくつもの曲輪が組み合わさる構造が特徴的で、眼下の景色はすばらしく、当時の監視機能を彷彿とさせます。

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土佐・伊予国境の防衛拠点「河後森城」

「河後森城(かごもりじょう)」は、高知県と愛媛県の県境、かつての土佐と伊予の国境付近にあります。
愛媛県側の松野町は、このエリアの中心都市である宇和島市の市街地から車で5分ほどの近距離ですが、標高900~1200mの山々に囲まれ、人口はわずか4000人ほどの静かな町です。松野町役場がある松野町中心部にはJR予土線「松丸駅」があり、そのすぐ近くに風呂ヶ谷登城口があり、河後森城に登城できます。

河後森城は、四万十川の支流である広見(ひろみ)川、その支流の堀切(ほりきり)川・鰯(いわし)川の3つの川に囲まれた独立丘陵上にあります。街道との関係に着目すると、拠点にふさわしい好立地であることがわかります。
土佐から伊予へは、おもに現在の県道107号、国道381号、県道106号に近い道筋の3つルー トが想定されますが、これらは河後森城の北山麓で合流し、河後森城下を通る松丸街道へと通じます。つまり、河後森城を攻略しなければ、宇和島方面へは進めないのです。中世の松丸街道の道筋は正確にはわかっていませんが、ほぼ近世と同じだと推定されます。また、町内には3つのルートに沿うように中世山城が存在しています。
実際に城へ登れば、本丸からの景色が立地のよさを教えてくれます。河後森城は、ちょうど広見川が西から東へと蛇行する右岸に位置し、河岸段丘によって形成された平地を一望できる、視界がもっとも開けた場所にあるのです。城の北側は街道に沿い、敵の接近もすぐに察知できそうです。

河後森城_眼下の景色

川や街道、集落の様子を一望できる河後森城からの景色。

河後森城が国境の城としていかに重要視されたかは、歴史が物語ります。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉が四国を平定すると、その後は秀吉家臣の小早川氏、戸田氏、藤堂氏、富田氏が城に入りました。
注目は、軍事拠点としての役割を終えた後も、国境の城として機能していることです。なかでも文禄3年(1594年)に入った藤堂高虎(とうどうたかとら)は、板島の宇和島城、大津の大洲城、河後森城を南予支配の3大拠点としました。江戸時代に入り、慶長19年(1614年)に10万石で宇和島藩が創立した後も、宇和島伊達藩家老の桑折氏が河後森城を居城としています。
※宇和島城、大洲城に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。

【宇和島城】築城の名手・藤堂高虎による建造の現存12天守のひとつで宇和島伊達家の居城

【大洲城】「伊予の小京都」にある巨大な復元木造大天守と江戸時代再建の特徴的な櫓

秀吉の平定前は、天正年間(1584年頃まで)に長宗我部氏が攻略しますが、それ以前、天文後期から永禄・天正期つまり16世紀前半〜後半にかけては豪族が激しく争っていました。国境の城というより勢力の境目の城といえ、永禄11年(1568年)の鳥坂合戦では、河後森城主の河原淵氏も土佐一条氏についたといわれます。伊予にありながらいずれの大勢力にも属する、両属的な性格を持っていたようです。

 

いくつもの曲輪が連なる特徴的な構造

河後森城の本郭は、標高171mの丘陵にあります。馬蹄形の尾根線上に、東から古城・本郭・新城の3つのエリアが置かれ、内側の風呂ヶ谷に屋敷群がありました。中央を南北に通る細長い風呂ヶ谷を取り囲むようにして、最高所に本郭、本郭から西南方向は西第2曲輪から西第10曲輪までの9つの曲輪、東方向は東第2曲輪から古城第3曲輪まで7つの曲輪、さらに古城の南には新城の曲輪群が階段状に連なる構造です。

河後森城_本郭址

本郭址には建造物の基礎部分が復元されています。

長く使われた国境の城らしく、改造が繰り返されています。 東第4曲輪と古城第2曲輪の間の堀切では、6段階に及ぶ掘立柱の門跡を検出、堀底を通路として使っていたことが確認されています。
興味深いのは、城門の角度と堀幅です。古い段階では、城外側の道幅が狭いところに進行方向に対して直角に置かれましたが、やがて堀底中央付近の道幅が広いところに、敵の直進を防ぐために斜交するように付け替えたようです。
この空間はかなり意識的な戦闘仕様で、古城に大阪城の真田丸にも造られたような塀庇があり、通路を駆け上ってくる敵を狙い撃ちできるよう設計されていたと思われます。城門も内外を結ぶ重要な玄関口として、少しずつ改造されたのでしょう。

西10曲輪南側に設けられた2本の堀切は、その下の切状を埋め立ててから掘り込まれたことが判明しています。 10世紀のものとみられ、登ってくる敵の動きを制限する竪堀のような機能があったと思われます。
ハの字型の空堀は、土佐一条氏の城で散見される形状です。本郭への虎口も2時期の改変があり、15~16世紀には堀切の東端に柱を岩盤に埋め込んだ掘立柱の城門がありましたが、16世紀末~17世紀初頭には堀切を壊して石垣づくりへと刷新したようです。

この城の登城道のつくり方はかなりおもしろく、本郭南斜面では全長約16mにも渡って岩盤を削り出したらしい平坦面が検出されています。表面を洗濯板のように等間隔でデコボコに削っていて、かなり手の込んだ仕事ぶりです。西第2曲輪と西第3曲輪との間から検出された岩盤をくりぬいた大規模な堀切も、堀底を通路としていたとみられます。

※城郭建築の基礎工事や建造物に関する基礎知識・用語解説は、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【城郭建築の基礎知識④】城郭の普請と建造物の施工(用語解説)

 

おすすめの散策ルート

河後森城の駐車場からのおすすめ散策ルートは、風呂ヶ谷を通って西第10曲輪へ登り、そこから曲輪群を通って本郭へ向かい、東第3曲輪を通って古城へ進み、一度戻ってから新城へ向かう、ぐるりと1周するルートです。

西第10曲輪は、馬屋と思われる建物が確認されているほか、生活にともなう出土品が多い場所です。本郭から階段状に連なる曲輪群のなかでもっとも低い位置にあるため、周囲の切岸が削り込まれ、空堀や竪堀で強化されているのも特徴です。
本郭は城主の居所で、儀式を行う主殿舎(しゅでんしゃ)などがありました。
古城には番所や櫓が建ち、周囲の支城を見渡せ、敵を迎え撃つ戦闘的な空間だったと連想されます。
新城は、そのほかのエリアとはがらりと雰囲気が変わります。土佐からの進軍ルートに向けて突出するように睨みをきかせていて、いかにも戦国の砦といった印象です。見張り用の櫓が建っていた可能性もあるようなので、ただでさえ高く突き出た場所に物見櫓があったならば、さぞかし視界もよかったことでしょう。

河後森城_馬屋復元

河後森城は、この写真の馬屋の復元など、いくつかの建物の復元がされているので、当時のイメージをしやすいお城です。

 

河後森城は、当時の監視拠点としての機能をイメージしやすく、高台から川や街道、集落を見下ろす景色もすばらしいので、散策に適したお城です。宇和島市街地から距離が近く、鉄道を使っても最寄駅からすぐの立地でアクセスしやすいので、お遍路道中や南予観光の際にはぜひお立ち寄りください。

 

【「河後森城跡」 地図】

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この記事を書いた人

建築・不動産・旅のテーマが得意なライター。社寺系ゼネコンに勤務経験があり、四国八十八ヶ所霊場の札所建築物の改修工事に携わったことがあります。仏教に興味があり、2022年には四国のお遍路巡礼もしました。ライターとは別名義で作家として小説も書いています。