【高松城】海城特有の櫓・門・堀などが現代にのこる日本三大海城のひとつ

香川県高松市にある「高松城」は、海が間近の立地の海城です。海城特有の櫓・門・堀などが現代にのこり、その多くが国の重要文化財に指定されいて、日本三大海城のひとつに数えられ、高松藩松平家の居城として繁栄した歴史をもちます。

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生駒氏により築城され高松藩松平家により繁栄した「高松城」

香川県高松市のJR高松駅すぐ近くにあるのが「高松城(たかまつじょう)」です。万葉の歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が「玉藻よし 讃岐の国は国柄か 見れども飽かぬ」と詠んだことに由来し、別名を「玉藻城(たまもじょう)」ともいい、現在の城跡は玉藻公園として整備されています。高松城の北側はすぐ海になっていて、人麻呂が称えた「玉藻」すなわち美しい藻をはぐくんだ海に臨む城です。

高松城を築いたのは、豊臣秀吉の重臣・生駒親正(いこまちかまさ)です。もともと美濃国(現在の岐阜県)に生まれた親正は、父方が織田信長の母親と同じ土田氏出身で、つまり信長の従兄弟にあたります。豊臣秀吉に仕え、金が﨑撤退戦や長篠合戦、石山本願寺攻めに参加し、本能寺の変の後は山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなど重要な合戦にはほとんど参加しています。天正15年(1587年)、秀吉から讃岐(現在の香川県)を与えられ、 翌年の天正16年(1588年)から3年の歳月をかけて城を完成させました。縄張りは黒田孝高(くろだよしたか)が手掛けたといわれ、細川忠興(ほそかわただおき)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)、藤堂高虎(とうどうたかとら)などによるとの説もあります。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、親正は石田三成(いしだみつなり)の西軍に属しましたが、息子の一正(かずまさ)は徳川家康率いる東軍で戦いました。どちらが勝ってもいいように家の存続を考えてのことといわれていますが、諸説あります。いずれにしても関ヶ原ではこのように親子が敵味方にわかれた例が珍しくありません。有名なところでは信濃国(現在の長野県)の真田昌幸(さなだまさゆき)・信之(のぶゆき)親子がそうでした。結果的には、一正は讃岐を安堵され、慶長7年(1602年)に父・親正が築いた高松城へ城主として入城しました。その生駒氏は寛永17年(1640年)、4代高俊(たかとし)のときにお家騒動が起き、出羽矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)1万石に左遷されました。親正は高野山へ下りましたが、当時にしては長寿であった徳川家康の75歳より長い78歳まで生きました。

生駒氏が去った後、寛永19年(1642年)に高松城に入城したのが、常陸国下館藩(現在の茨城県筑西市)の藩主だった松平頼重(まつだいらよりしげ)でした。水戸徳川家の祖・徳川頼房(とくがわよりふさ)の子で、水戸黄門こと徳川光圀(とくがわみつくに)の兄です。四国・中国の外様大名へのにらみということでの転封だったようです。
頼重は城の改修に着手し、3層4階だった天守を3層5階に建て替え、北の丸の新設なども行いました。また、雨量が少ない讃岐の地ということで藩内に約400ヶ所の溜池を作るなど、領国と城下町の整備につとめました。

高松城は明治2年(1869年)、つまり版籍奉還まで、松平頼重を初代とする高松藩松平氏が11代228年にわたって居城としました。
明治4年(1871年)の廃藩置県の後は、政府の所管となり、建物は存続しましたが、天守は老朽化のため、明治17年(1884年)に取り壊しとなりました。現在の本丸は天守台が残るのみですが、天守の復元計画が進められています。

 

海城らしい特徴的な遺構がのこる日本三大海城のひとつ

二の丸と三の丸の間には水門があり、ここから瀬戸内海の水を内堀に引き入れました。潮の干満による水位の調節を行う役目もありました。
この海の水を堀に引き入れる構造の高松城は、大分県の中津城(なかつじょう)、愛媛県の今治城(いまばりじょう)とともに日本三大水城に数えられ、海城らしい遺構を見ることができます。
※城郭建築の選地や立地による種別、設計に関しては以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【城郭建築の基礎知識③】築城の計画・選地と城郭の設計(用語解説)

高松城_掘・水門

堀に海の水を引き入れる水門。

内堀に沿うようにして三の丸に広がる庭園は「内苑御庭(ないえんおにわ)」と名付けられていて、江戸時代の庭をもとに、大正時代に造られた枯山水の庭園です。江戸時代の石組みも残っています。
「艮櫓(うしとらやぐら)」は延宝5年(1677年)頃に築かれた櫓です。北東の方角を丑寅ということからこの名が付き、その名称の通り、もとは東の丸の隅にあった櫓を移築したものです。3層3階の堂々とした雰囲気の櫓で、昭和40年(1965年)に旧太鼓櫓跡に移築復元された国指定重要文化財です。

北の丸に残るのは「月見櫓(つきみやぐら)」です。3層3階の隅櫓で、かつては海に面して建ち、出入りする船を監視するという重大な役割をもっていました。高松藩主が江戸から船で到着する様子をみていた櫓でもあることから同じ読みで「着見櫓」とも表記されます。延宝4年(1676年)頃の完成とされ、国の重要文化財に指定されています。
月見櫓と連なっているのが「続櫓(つづきやぐら)」「水手御門(みずてごもん)」「渡櫓(わたりやぐら)」で、いずれも国の重要文化財です。水手御門は薬医門(やくいもん)様式の門で、直接海に向けて開く海城特有の城門です。この高松城でしか見られない貴重な遺構です。藩主はここから船に乗りました。

高松城_月見櫓

海を望む月見櫓はきれいな状態で保存されています。

 

高松城は、天守はのこっていませんが、櫓・門・堀などに海城ならではの特徴をみることができる貴重な史跡で、現在は公園として高松市民の憩いの場にもなっています。JR高松駅からすぐでアクセスもよいので、お遍路道中や観光で高松市街地に立ち寄った際にはぜひ訪れてみてください。

 

【「高松城跡」 地図】

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この記事を書いた人

建築・不動産・旅のテーマが得意なライター。社寺系ゼネコンに勤務経験があり、四国八十八ヶ所霊場の札所建築物の改修工事に携わったことがあります。仏教に興味があり、2022年には四国のお遍路巡礼もしました。ライターとは別名義で作家として小説も書いています。