【7番札所十楽寺】珍しいふたつの門と戦火にみまわれた歴史

7番札所十楽寺は、もともとは現在のお寺の場所から3kmほど山の方へ入った場所にあり、戦国時代の戦火で失われ、江戸初期になり現在地へ再建された歴史があります。境内のふたつの珍しい門や御本尊のいわれとともにご紹介します。

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6番札所・7番札所と連続する竜宮門

7番札所十楽寺の入口の山門は、珍しい竜宮門の形になっています。ひとつ前の札所の6番札所安楽寺は竜宮門と仁王門のハイブリッドタイプの山門で、中央の楼門を単体で見れば竜宮門なので、偶然なのか近隣のお寺で同形式の山門があることになります。一見すると屋根の形はどちらも入母屋タイプで、軒裏も含めて木材部はすべて朱塗りにされ高欄も含めて各部の造作もよく似ているので、同じ職人さんの手によるものかもしれません。
竜宮門は楼門の一種で、1階部分を人が通り、2階部分に梵鐘を吊るしています。
※以下リンクの6番札所安楽寺の山門の記事で、竜宮門の基礎情報についても詳しく説明していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【6番札所安楽寺】仁王門と竜宮門のハイブリッド山門と茅葺屋根の宿坊

十楽寺_山門

土台の漆喰の白と、2階部分の朱色のコントラストが印象的な十楽寺の山門(竜宮門)。

 

愛染明王が祀られている中門

竜宮門を入って道なりに進むと中門があり、さらに進むと本堂、その左へ入ると大師堂があります。

遍照殿という扁額の掲げられた中門も、竜宮門と同じ2階建ての形になっていて、1階部分は通り抜けられるようになっておりますが、2階部分は愛染明王を祀る愛染堂になっています。
愛染明王は縁結びの仏さまとして知られています。源頼朝や、お市の方(浅井長政に嫁いだ織田信長の妹、戦国ナンバーワンの美女といわれる)も厚く信仰した仏さまです。向かって左から登ると縁結び、右から登ると縁切りが叶うといわれています。
楼門ではないものの、 こちらも竜宮門風に仕上げられていて、珍しい形の門がふたつ連なるのは十楽寺の特徴的なところです。

十楽寺_中門

中門の2階は愛染明王が祀られている愛染堂になっていて、「縁結門」「縁切門」のどちらからのぼっていくかが重要です。

 

十楽寺の御本尊「阿弥陀如来」

7番札所十楽寺の御本尊は阿弥陀如来です。四国八十八ヶ所霊場の札所の御本尊は観音菩薩や薬師如来などそれぞれで、読み上げる真言も変わります。十楽寺の宗派は高野山真言宗ですが、実は真言宗に多い御本尊は大日如来で、阿弥陀如来は浄土宗や浄土真宗に多い御本尊です。十一面観音や千手観音などの種類が多い観音菩薩は、一般的には御本尊の脇侍であったり、西国三十三所観音巡礼のように札所本尊としているところが多いようです。

薬師如来や釈迦如来は天台宗・真言宗の平安仏教に加えて、浄土宗と浄土真宗を除く鎌倉仏教にも普及しています。たとえば臨済宗や曹洞宗で御本尊が阿弥陀如来という話はあまり聞いたことがありません。しかし弘法大師空海と直接縁の深い四国八十八ヶ所霊場の御本尊は、お大師様がさまざまな仏さま、観音菩薩を感得しているため、ひとつの仏さまに偏らなかったからといえるかもしれません。

阿弥陀如来という仏さまは、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土へ行けるという極めてシンプルでありがたい仏さまです。鎌倉時代の疫病や戦乱が蔓延する世の中で、この阿弥陀如来を推したのが法然上人と親鸞聖人でした。
仏教には輪廻転生という生まれ変わりの考えがありますが、生まれ変わってもまたこんなしんどい世の中を生きなくてはならないのなら、阿弥陀如来にすがって極楽浄土へ往生し、苦しみも悲しみもない理想的な環境で仏になるために悟りを得る修行をしたい、という庶民の支持を得た仏さまです。身分も関係なく、修行しなくても「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでよく、親鸞聖人に至っては修行を積んだ「善人」よりむしろ何も努力しない「悪人」のほうが阿弥陀如来に救われやすいのだ、とまで言っています。

 

戦火にみまわれ再建された十楽寺の歴史

また、十楽寺も含めて四国八十八ヶ所霊場のうちのいくつかの札所は、戦国時代の兵火で焼失しています。四国の場合は、織田信長や豊臣秀吉の影響は少なく、土佐一国を支配していた長宗我部元親による四国平定が影響しています。長宗我部元親は1570年頃から四国全体の平定に乗り出しました。まず阿波の国の南部の宍喰(ししくい)に侵入して海部城を落とした後に北上しました。宍喰は現在の徳島県と高知県の県境付近です。
さらに現在の十楽寺がある阿波市から吉野川上流へ遡った、現在の三好市池田町の白地というエリアへと侵入し、白地城主・大西氏を追い出して、四国平定の拠点にしたのは1577年頃だったと伝わっています。この白地に常時7000~8000の兵を集めて阿波、讃岐、伊予に出兵し、8年後の1585年には四国を統一してしまいました。つまり四国八十八ヶ所霊場の札所が長宗我部元親の兵火により失われたのはおおよそ1570年代から10年間くらいの間だったことになります。

十楽寺も天正10年(1582年)に当時の広大な七堂伽藍がすべて焼失したそうですが、住職と弟子が大切な仏像は運び出し無事であったと伝わっています。先にご紹介した御本尊の阿弥陀如来は兵火をくぐりぬけ、現代でも人々を救い続けていることになります。
その後、江戸時代に入ってから現在地に堂宇が再建された苦難の歴史があり、多くのお遍路さんを迎え入れる四国八十八ヶ所霊場の札所として栄えています。

 

時代の流れとはいえ、貴重な建築遺産が焼かれてしまったのは残念でなりません。その後再建されたり新築された現在の建物は、これからもなるべく後世に残り、長い歴史を刻み続けてくれるよう祈るばかりです。

 

【7番札所】  光明山 蓮華院 十楽寺(こうみょうざん れんげいん じゅうらくじ)
宗派: 高野山真言宗
本尊: 阿弥陀如来
真言: おん あみりた ていせいから うん
開基: 弘法大師
住所: 徳島県阿波市土成町高尾字法教田58
電話: 088-695-2150

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この記事を書いた人

建築・不動産・旅のテーマが得意なライター。社寺系ゼネコンに勤務経験があり、四国八十八ヶ所霊場の札所建築物の改修工事に携わったことがあります。仏教に興味があり、2022年には四国のお遍路巡礼もしました。ライターとは別名義で作家として小説も書いています。