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かつての駅舎がモチーフ? 漫画家・松本零士氏ゆかりの大洲市立新谷小学校。
この場所はかつて陣屋があり、大洲藩から分知した新谷藩が治めていました。

新谷小学校

新谷地域ゆかりの松本零士氏のエピソードは、以下リンクの記事でもご紹介しています。

有名SF漫画の原案が生まれた街「新谷(にいや)」【43番札所「明石寺」→44番札所「大寶寺」】

銀河鉄道999の始発駅?特徴的な時計台を持つ小学校【新谷小学校[大洲市]】

—– 記事に登場する主な地名・単語
新谷(にいや)
大洲市(おおずし)
陣屋(じんや)
肱川(ひじかわ)

—– 記事に登場する人物
松本零士(まつもとれいじ / 1938~)… 漫画家。福岡県生まれ。幼少期に新谷での疎開を体験。
加藤泰興(かとうやすおき / 1611~1678)… 大洲藩二代藩主。
加藤直泰(かとうなおやす / 1615~1682)… 新谷藩初代藩主。

 

独立した小藩・新谷

新谷藩陣屋跡の石碑

新谷小学校の校門前にある石碑。

新谷藩陣屋跡の説明

新谷藩陣屋跡の説明が書かれています。

陣屋とは、小規模石高の土地を治める大名が暮らす屋敷の事。
新谷藩及び新谷陣屋は、元和9年(1623) 大洲藩二代城主・加藤泰興の時代に弟の直泰に宗家・大洲藩六万石のうち、一万石を分与したことに始まる。初代藩主が泰興・直泰両兄弟のどちらを跡取りにするかを決めずに死去したため一時内紛が起こったが、寛永16年(1639)に藩内分知で決着。正式に新谷藩が成立した。
肱川の氾濫に見舞われるなど藩財政が苦しく、宗家である大洲藩が藩政を執行することもあったようだが、新谷藩は明治の版籍奉還まで 9代続いた。

一国一城令により城郭の設置こそ認められず陣屋という扱いではあったが、藩内分知は家臣扱いだった中で、新谷藩だけは一国として見なされ、大名の呼称使用が許された唯一の例だった。

現在、陣屋があった跡地には新谷小学校が立ち、新谷地区の教育拠点となっています。

 

【「新谷藩陣屋跡」 地図】

 

住宅街の中で見られる新谷藩の遺構

小学校手前の交差点

新谷小学校(旧新谷藩陣屋)から少し戻ったところ。消防団倉庫の横に、新谷藩の遺構を見ることができる。

白壁が美しい土蔵

漆喰で白く塗られた壁に、

特徴的な家紋

「上り藤」「蛇の目」の紋。大洲を治めていた加藤家の家紋が据えられています。

全国的に珍しい金蔵は大洲市指定文化財

こちらは新谷藩の金蔵。金蔵とは藩の御用金を保管する蔵の事。

例えるなら、

新谷藩のお財布

です。

新谷藩は肱川の洪水や陣屋町の火災など、藩財政を安定させることが難しく、困窮を極めたと言われる。明治の版籍奉還前には、一万石とされた石高をわずかに割り込んでいた。

 

大洲・新谷を治める加藤家には、好学を良しとする気風があり、宗家・大洲藩と同様、早い時期から藩論を勤皇と定めていた。
幕末に起こった戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いに小藩ながら参陣。活躍した功績が認められ、大洲藩・新谷藩共に廃藩置県時に旧領域と同様の大洲県・新谷県が設置され、加藤家は華族に列することとなった。

遍路道中にぜひこのような地域の歴史や遺構に触れてみてください。

※金蔵がある通りの別の遺構に関して、以下リンクの記事に続きます。

新谷を盛り上げた当地出身の豪商【池田貫兵衛(いけだかんべえ)】

 

【「新谷藩金蔵跡」 地図】

 

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野瀬 照山

八十八ヶ所案内人・先達であり、旅人をお迎えするゲストハウスそらうみを運営。 四国八十八ヶ所結願30回、うち歩き遍路12回。 四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「さぬき高松ゲストハウスそらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。