南予は海を隔てて九州と向き合う位置柄、そちらからの影響を多分に受けてきた地域です。別格7番札所出石寺へ向かう遍路道で見ることができる史跡は、旧領奪還の夢が儚く散った、公家出身の戦国大名「一条兼定」ゆかりの場所です。
出石寺遍路道
番外霊場であり別格7番札所の出石寺(しゅっせきじ)は、標高812mの金山(きんざん)に位置する山岳霊場。寺へ上がる登山ルートがいくつかある中で、大洲市平野から上がる遍路道に、こちらの史跡があります。
出石寺へ歩いて上がる場合は、登り・下り共に非常に時間がかかります。日没前に下山できる計画で、朝早く入山するよう心掛けてください。
一条兼定仮寓所(いちじょうかねさだかぐうしょ)
土佐中村の一条氏は、元々鎌倉時代に成立した五摂家の一つ。室町時代に応仁の乱を避けて自身の所領であった中村に下向。そこで戦国大名・土佐一条氏となり数代続いた。
戦国時代になり、五代目・一条兼定(いちじょうかねさだ)は長宗我部元親の西進に伴って所領を追われ、海を渡って豊後國(ぶんごのくに、現大分県)を治める大友義鎮(おおともよししげ、宗麟)に身を寄せて、反撃の機会を窺う。その過程で洗礼を受けて、宗麟と同様キリシタン大名となった。
体勢を立て直して四国へ戻ることができたが、再び勃発した渡川(わたりがわ、四万十川)の合戦に敗れ逃走。大分と四国の両方を見渡すことができる宇和島沖の戸島(とじま)の洞窟に隠棲している際に旧臣の一人に襲われ、その怪我が元でこの世を去った。
キリスト教の篤い信仰と旧領奪還の野望は最期まで持ち続けたことは、戸島で隠棲生活を送る兼定を見舞った宣教師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって記録されている。
キリシタン祠?
大洲市山中のこの場所は、一条兼定公の仮寓所(かぐうしょ)。旧所領の中村奪還が叶わず逃走する中で一時身を置いた場所です。
祠上部にある十字紋から、キリシタン史跡であることを想像することができます。
ただし、この紋は「切竹十字紋」と呼ばれる、摂津國(せっつのくに)の戦国大名・能勢氏(のせし)の家紋と同じ。
摂津といえばキリシタン大名で有名な高山右近(たかやまうこん)が居を構えていた地域。家紋から連想するに、能勢氏もキリシタンであった…というと、そこは少し事情が異なる様子。徳川幕府の禁教政策を受けて、所領にある寺院と民衆を自身が信仰する日蓮宗(法華宗)に改宗させたことから、「能勢のいやいや法華」と呼ばれる強引な改宗政策が伝わっている。
異説としては、この紋を目にして想像できる通りの能勢氏隠れキリシタン説が存在し、十字架の端を切った「切竹十字紋」の家紋とすることで棄教を示した説もある。
現在「切竹十字紋」を見ることができるのは「妙見山」。能勢氏の所領であった現在の大阪府能勢町にある、関西における日蓮宗の拠点。北極星信仰を表す「切竹十字」が寺紋に採用されています。
日蓮宗霊場・能勢妙見山ホームページ: https://www.myoken.org/
鉱山と北極星信仰
祠内部には紅く塗られた紋と、他ではあまり見かけない仏像。
舶来の神のようであるし、山の神である権現とも取れる。不動明王でもあるような。知識が浅く調べがつかないのですが、自分にはキリスト教・仏教・神道全てがミックスされたもののように感じられます。
能勢妙見山と共通点を探るとすれば…
出石寺があるお山は、その名も「金山」。かつて鉱山操業が行われていた時代がありました。
妙見山の辺りは豊臣秀吉によって大規模な鉱山開発が行われた「多田銀山」。
「鉱山」という共通点があります。鉱業従事者にとって北極星信仰(=日蓮宗)は、密接な関係にあるのかもしれません。
梶ヤ谷のヤマモモ
切竹十字紋の祠の前には、日蓮宗のお題目である「南妙法蓮華経」と刻まれた石碑があり、当地での日蓮宗信仰を見ることができます。
横にある木は「梶ヤ谷のヤマモモ」
大洲市指定の天然記念物に指定され、地域のシンボルツリーとなっています。
【「一条兼定仮寓所」「梶ヤ谷のヤマモモ」 地図】