【法泉寺】讃岐國ゆかりの戦国大名「生駒家」の廟とその後

大きな釈迦如来像が街を見守るように立つ「法泉寺」。戦国時代にその礎が築かれた高松城下町にあるこちらの寺院には、讃岐國ゆかりの戦国大名「生駒氏」が祀られています。

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法泉寺 案内板

生駒家とゆかりある事が記された法泉寺案内板

法泉寺の歴史や釈迦如来像に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。

【法泉寺】高松の街を見守る法泉寺のおしゃかさま

 

生駒家廟

法泉寺 生駒廟入口

立札には生駒家と縁ある品々が記されている

法泉寺の境内、釈迦如来像の北側に煉瓦で仕切られ門が設置されている区画があります。

法泉寺 生駒家廟

二代藩主・一正、三代藩主・正俊が祀られている生駒家廟

入口には「生駒家廟(いこまけびょう)」と記されているこちらには、二代藩主・一正と三代藩主・正俊の墓所があります。

廟(びょう)とは…
先人の御霊(みたま)を祀る建物。とりわけ日本では特定人物の墓を指すことが多い。一般的な墓所には「●●家之墓」とあるように一族皆が入るところ、というイメージ。特に問題が無ければ子々孫々受け継がれていきます。
個人名の墓は家族や子孫に受け継ぐことができない同氏限りの物。それを建てるに見合った功績を残した者といえば、昔だったら大名やその土地の名士。現代であれば大実業家など。

 

生駒騒動

法泉寺 生駒騒動案内板

第三代藩主・正俊が36歳の若さで亡くなったことが、事の発端という見方も

高松生駒家
初代藩主・生駒親正(いこまちかまさ/1526-1603)
第二代・生駒一正(いこまかずまさ/1555-1610)
第三代・生駒正俊(いこままさとし/1586-1621)
第四代・生駒高俊(いこまたかとし/1611-1659)


豊臣秀吉恩顧の武将として讃岐國にやってきた生駒親正。この地で高松・丸亀それぞれに城を築き、城下町を整えました。施政を行った期間は江戸時代の松平家のほうが長いものの、例えば高松市の地名「大工町」「丸亀町」等で生駒家時代の名残を見ることができます。

生駒家…高松・丸亀両城の築城、城下町の整備など
松平家…栗林公園の造営、製麺・製糖産業の奨励など

契機になったのは第四代・生駒高俊の時。
第三代・正俊公が36歳で亡くなったため、高俊公が家督を継いだのが10歳の時。年齢が若かったため外祖父である藤堂高虎(とうどうたかとら/1556-1630)が後見人を務めることになります。
藤堂高虎は築城の名人として知られる武将で、四国では宇和島城や今治城を築いた人物。後者の際は城を建てて「今から治める」と宣言したことから、街の名前が「今治(いまばり)」になったという説があります。
高虎は高俊19歳の時に亡くなりますが、藤堂家は引き続き家臣を派遣して高松の藩政に関与し続けました。そうするうちに次第に生駒派vs藤堂派という対立構図が出来上がっていきます。しかしながら当主本人は政治に興味を示さず、専ら美少年を集めてはその遊興に熱中していたため、財政難はもちろん家中が不穏な空気に包まれていきます。

その不満が爆発したのが「江戸城の修築工事の依頼」
幕府から木材供出の命を受けますが、既にその資金がありません。そこで藤堂派の独断によって石清尾山(いわせおざん)の松林を伐採してその場を乗り切ることになるのですが、そこは初代・親正公が高松城を築いた際に「有事の際に城を守る要害になるから木を切ってはならない」と言い残した山。この横暴に生駒派の家臣らが猛反発。その騒動はゆくゆく第三代将軍・徳川家光の耳に入り、両家臣団は喧嘩両成敗の切腹刑。
当主の高俊は?相変わらず美少年らとの遊興に夢中で、何も聞かされていなかった始末。当然のことながら家臣らの管理不行き届きを理由に改易処分。遠く出羽國(でわのくに、現在の山形県・秋田県を合わせた地域)へ転封になり生駒家による讃岐國支配は終わりを告げました。
そして徳川家康の孫である松平頼重(まつだいらよりしげ/1622-1695)が常陸國(ひたちのくに、現茨城県)からやってきて、明治になるまで松平家が高松を治めました。

 

出羽に移った生駒家

鳥海山

出羽富士こと鳥海山、生駒家は山の北側にある矢島を治めていた

生駒高俊公が転封になった先「出羽國由利郡矢島村(でわのくにゆりぐんやしまむら)」は現在の秋田県由利本荘市矢島町。出羽富士と名高い鳥海山(ちょうかいさん/2,236m)の秋田県側にあたる部分。そこに1万石を与えられ陣屋を構えました。陣屋(じんや)とは、石高3万石未満の大名は城を築くことが許されないためそれに代わる武家屋敷のこと。その後領地を兄弟に分知したため大名でもなくなり、生駒家は旗本として江戸時代を生きることになります。

「一万石」がどのようなものか。
一石は成人男性が一年に食べるとされる米の量で約150kg。すなわち一万人の家来を養うことができるだけの米が獲れる領地の広さということになります(現在の日本人男性の一般的な年間米消費量は約60kg)。
江戸時代は農民が治める税金は現金ではなく「米」。武士が俸禄(給料)として支給されるのも「米」。武士がそれを換金することで現金を得ると共に、世の中に米が流通していました。
※他の給料形態も存在します

一万石は1,500,000kg(1,500トン)。現在のお金に換算するとして仮に米10kgが5,000円だとすると「750,000,000円」。単純計算7億5千万円の収入がある土地を与えられたということになります。

これだけを見ると不祥事で遠国に飛ばされたとはいってもなかなかの好待遇のように思えてしまいますが、冷涼で雪も多いこの土地で公称石高通りの米を収穫することは不可能に近いこと。豊作の年はそのぶん幕府へ納める金品が増えますし、平生から江戸とを行き来する費用もそこから捻出しなければいけないので、単純に1万石収益を上げたからといって1万人雇えるわけではありません。温暖な讃岐國から「ここに住め」といわれるには、あまりにも厳しい環境だったはずです。

その後の生駒家はそれまでの不祥事が嘘だったかのように家系が断絶することなく代替わりを続け、矢島生駒家第12代当主・生駒親敬(いこまちかゆき/1849-1880)の時代に戊辰戦争が勃発。矢島藩は新政府軍に付いたことにより領地を加増され、実に209年ぶりに大名に返り咲きました。その後の廃藩置県によって免官されるも爵位を与えられ、華族となり地位を保ちました。

余談になりますが、秋田県由利本荘市出身の女性タレントに生駒里奈さんという方がいらっしゃいますが、その街がかつて生駒家が治めた矢島藩の領地の一部にあたります。もしかしたら高松や丸亀の城下町を築いた初代当主・生駒親正の末裔の方…かもしれませんね。

※法泉寺の歴史に関しては以下リンクの記事に続きます。

【法泉寺】高松空襲からの戦後復興と高松市街地の変遷

 

【「法泉寺」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。