【法泉寺】高松空襲からの戦後復興と高松市街地の変遷

明治40年(1907)12月から現在まで100年以上、高松の中心市街地で街を見守り続けている法泉寺のおしゃかさま。昭和20年(1945)7月4日の高松空襲にも耐えた歴史があります。

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法泉寺 移転した釈迦如来像

参道正面に立つ釈迦如来像の現在地は戦後移ったもの

法泉寺の歴史やおしゃかさま、ゆかりの戦国武将については、以下リンクの記事でご紹介しています。

【法泉寺】高松の街を見守る法泉寺のおしゃかさま

【法泉寺】法泉寺に祀られている生駒家のその後

 

戦後新しくできた高松市街地の道路

法泉寺 県庁前通り

写真は香川県道173号高松停車場栗林公園線法泉寺付近の様子で、奥のタワーがある場所が高松駅

法泉寺西側を南北に貫く片側一車線道路は、通称「県庁前通り」として、

北…高松駅

↓…法泉寺
↓…高松市役所 ※道に面してはいない
↓…香川県庁

南…栗林公園北口

高松市街の主要地点を結んでいます。
沿線に並ぶ施設をみるとさぞ昔から存在した道であるように思えるところですが、法泉寺付近の区間は戦前は全く存在しなかった部分。それどころかこの写真で見る交差点より南側は法泉寺の境内地でした。東西(右が東)歩道と道路の間にある植え込みに建てられている石碑にその手がかりがあります。

 

高松空襲と法泉寺の釈迦如来像

法泉寺 県庁前通り 釈迦像石碑

道路沿いに立つ「釋迦像旧●」と刻まれた石碑

まずは東側の植え込みの石。樹木が茂っているため最下部まで文字を確認することができませんが、いわゆる「法泉寺のおしゃかさま」がかつて居た場所とみてよさそうです。

高松市街地 古地図

昭和5年(1930)頃の高松市街地の古地図

現在と違う部分を挙げていくときりがないところですが、戦前と現在の高松市街地の大きな違いとして「市街地に路面電車」が走っていること。
地図の中央部にある「たかまつ」が現在の高松琴平電気鉄道(ことでん)の瓦町駅。今はここから北に路線が延びて高松城西の堀端にある高松築港駅に発着して、JRとの乗り換えなどに対応しています。
戦前はその路線(通称築港線)は無く、高松駅へは市街地をぐるりと回ることでんの市内電車が省線高松駅(現JR高松駅)を結んでいました。

高松市街地 古地図 拡大

通りは多いけれど、現在と違って大きな通りは少ない

地図記号「◎」がある場所が高松市役所で法泉寺はそのすぐ北西(左上)。その街区には「卍」の記号がいくつかありますが、寺と工場の地図記号が並んでいる場所が法泉寺です。

工場の記号が表すものは燐寸(マッチ)製造工場。下津燐寸(しもつまっち)の名で世に出回っていました。戦前の家庭生活にとってマッチは必需品。戦時中はマッチが統制品になり配給制になりますが、数ある配給品の中で最も重要度が高かったと言われるほどです。

寺の東には市内電車が運行されていて「法泉寺前」の電停もありました。

第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)7月4日未明。高松はアメリカ軍爆撃機百数十機による爆撃を受け市街地の80%が焼失。1,359名が亡くなりました。高松市街地中心に位置する法泉寺では生駒家廟(いこまけびょう)・梵鐘(ぼんしょう)・釈迦如来を除く全ての堂宇が焼失。近くの高松赤十字病院は爆撃により全焼。当直の医師・看護師や入院患者が全員死亡するなど街中で甚大な被害が発生しました。下津燐寸の工場もこの時焼失しています。
街の広さに対して投下された爆弾・焼夷弾の量を平均すると、100㎡あたり約2.7kgの焼夷弾が落とされたことになります。10m×10mの正方形の土地があったとすると、そこに8個の焼夷弾が落ちてきたことになるのでほぼほぼ隙間なしです。この爆撃によって市内電車が各所で破壊され、戦後復活することなく廃止されました。

奇跡的に無傷のまま残った法泉寺の釈迦如来像は、焼け野原の中心に立ち市街地どこからも目にすることができて、焼け出された市民らにとってその姿は心の拠り所になったことが語り継がれています。

 

戦災復興事業によって市街地に大きな通りが誕生

高松市街地 航空写真 拡大

写真ほぼ中央の高松駅から南に伸びる道が戦後新しく整備された県庁前通り

戦後、高松は戦災復興土地区画整理事業によって、被害を受けた市街地が大きく様変わりすることになります。
法泉寺付近は特に大きく変わった街区。前述の県庁前通りが境内を貫くことになり、その計画線上にあった釈迦如来像や生駒家廟は移転を余儀なくされます。廃止になった電車通りは逆に道路ではなくなり、マンションなど住宅地などに姿を変えました。

法泉寺 県庁前通りからの釈迦如来立像

釈迦像旧●の石がある場所から現在の釈迦如来像を見たところ

釈迦如来像の現在地は旧所から東南東の方角に十数m離れた位置。現在の釈迦如来像はかつての電車通りがあった部分に立っています。通りが変わるほど大規模な区画整理が行われたわけですが、そこは空襲被害がとても大きかったことを忘れてはいけません。
現在、高松駅から栗林公園に自家用車や路線バスで向かう場合は「中央通り」と呼ばれる片側三車線+中央分離帯の広い道路を南進しますが、こちらも戦後に造成されたものです(一つ上の写真の中央分離帯に緑が見える道路)。

法泉寺 県庁前通り 生駒家廟旧地石碑

通称「美術館通り」との交差点の横断歩道西側の植え込みに石碑がある

石の上部に「生」という字が見えますが、生駒家の「生」という頭文字。字が道路のほうを向いているため近寄って見学するのが難しくこちらの場所からではありますが、生駒家廟があの地点にあったものと思われます。
生駒家廟も高松空襲で焼失を免れ、戦後の区画整理事業によって現在地に十数m移転しました。移転に際して元敷地の発掘調査が行われましたが、当地に祀られている生駒一正・正俊の遺骨や遺髪のほか副葬品などが発見されたことが記録されています。

 

空襲の焼け跡が残る山門

法泉寺 山門

法泉寺の敷地南側にある山門の右側の腕木部分に注目

区画整理が行われなかった東西の通りに面した部分に山門があります。こちらの門は普段は閉ざされていて寺院への出入口にはなっていません。ご覧いただきたいのが向かって右の腕木の部分。

法泉寺 山門 空襲焦げ跡

梁を受ける腕木と柱に残る黒く焼けた痕

こちらは空襲の際に米軍が投下した焼夷弾による炎が柱に着火して燃えた痕です。

 

姫路大空襲と同日同時刻の出来事

法泉寺 山門 釈迦如来立像

姫路と共に伝わる焼け跡での精神的支柱のエピソード

高松空襲は前夜の7月3日午後11時頃に空襲警報が鳴り響き市民は空襲を警戒しましたが、その時は攻撃が無く警報は解除されました。しかしながら翌4日午前2時56分に突然空襲が始まり、寝静まっていた市民が逃げ遅れたことが人的被害を大きくしました。
高松市中心部に位置する法泉寺には焼夷弾が激しく降り注ぎ周辺は火の海に。そのさなか、時の住職は危険を顧みず火が付いた山門の消火活動を必死に行い、門が全焼せずに済んだと伝わります。

高松空襲と同日同時刻には、高知・徳島・姫路でも大空襲と呼ばれる大規模な爆撃が行われています。

高松空襲…1,359名死亡、80%焼失
徳島大空襲…984名死亡、62%焼失
高知大空襲…401名死亡、40%焼失
姫路大空襲…173名死亡、40%焼失

並べて見ると高松の被害が突出して大きいことがわかります。

姫路では深夜の空襲で城下町が焦土となった翌朝(7/4)、焼け出された市民らが空を見上げると姫路城がほぼ無傷の状態で佇み、その姿に市民らは大いに勇気づけられたといいます。

高松空襲から2021年で76年が経ちます。法泉寺のおしゃかさまのエピソードは姫路城のそれほどは有名ではありませんが、壊滅的な被害を被った高松市民の精神的な支えになったことは、この先も語り継がれることと思います。

 

【「法泉寺」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。