【旧大川橋】住民の悲願が鉄道駅設置にも繋がった吉野川への架橋

四国一の大河である吉野川には新旧大小様々な橋が架かっていますが、現在の徳島県三好市内でかつて架かっていた「大川橋」は橋脚だけが残されています。吉野川と橋および地域にどのような歴史が秘めらているのでしょうか。

スポンサーリンク

大川橋_橋脚

四国三郎こと吉野川流域では、橋脚だけが立っている姿をしばしば見ることができます。

 

川と渡し舟

吉野川_架橋_渡し舟

日本三大暴れ川の一つである四国三郎・吉野川への架橋は難しく、近年までなかなか進みませんでした。

四国八十八ヶ所参り、とりわけ歩き遍路をしていると実に多くの川を橋で渡りますが、小さい水路ならばいざしらず、吉野川のような大きな川をお遍路さんが橋で渡る行為は概ね昭和時代になってからのことではないでしょうか。永久橋と呼ばれる鋼材やコンクリートを用いた近代橋の技術は明治時代以降に国内に伝えられたもので、国の政策としてまずは道路より鉄道網の整備が優先された経緯があります。
仮に政府が架橋工事の予算を確保したとして、それを道路か線路のどちらに費やすか、戦前はもっぱら線路のほうが選択されていた感があります。その時代に大河川に近代橋を架けようとすると資材や技術は輸入になり、一介の民衆には到底賄うことができないような莫大な費用が必要でした。

そこで住民や旅行者、四国でいえばお遍路さんが川を渡る際に必要としていた渡川手段が「渡し舟」です。現代の歩き遍路でも32番札所禅師峰寺33番札所雪蹊寺の間で浦戸湾をショートカットする遍路道が高知県営渡船になっているなど、四国では戦後も渡し舟が広く活用されてきました。
※浦戸湾の高知県営渡船に関して、以下リンクの記事で紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。

【32番札所禅師峰寺→33番札所雪蹊寺】種崎から長浜へ県営渡船「龍馬」でワープ

当記事に登場する吉野川でもかつては多くの場所で渡し舟が活躍しておりましたが、それは戦前の吉野川には歩いて人が渡ることができる橋がほとんど存在しなかったためです。吉野川でも政府主導の近代橋は鉄道橋が優先され、その多くが昭和時代初期~戦前頃にかけて開通しましたが、道路橋が無い時代に住民が川の対岸に行くためには、渡し舟の他に列車が来ない時間を見計らって鉄道橋を歩いて渡ることもありました。このエピソードは吉野川に限ったものではなく、全国各地で同様のことが行われていたようです。

 

大川橋建設の機運

大川橋ものがたり

現在は橋脚だけになった大川橋ですが、そのたもととなる左岸にこちらのイラスト看板があります。

大川橋
と聞くともっともらしい名称に感じますが、右岸の池田町大利(おおり)と左岸の山城町下川(しもかわ)の字名からそれぞれ一字ずつ取って「大川」としたようです。
※川の右岸左岸は、下流に向いて立った時に右側にある岸か左側にある岸かということになります

ちなみに大利と下川、それぞれ建設当時は三好郡三縄村大利、三好郡山城谷村下川で、現在は市町村合併により同じ三好市になっておりますが、当時は自治体が異なりました。通常市町村や都道府県をまたぐ事業だとその負担割合の折衝が難航するイメージがありますが、そこは後述する一個人の資金捻出だったのが良かったのかもしれません。

大川橋架橋経緯

架橋の機運は鉄道省土讃線(現・JR)の当区間が開通することでした。

当村域を含む三縄-豊永の鉄道が開通すると高知県側から延伸してきた路線が香川県の多度津と繋がります。すなわち高知県と県外が陸路の公共交通機関で接続される歴史的な出来事が控えておりました。

松山方面-①-多度津-②-高松方面
        │③
       阿波池田-④-徳島方面
        │③
       三縄
        ¦ 昭和10年(1935)11月開通
       豊永
        │③
       高知方面

①②予讃線
③土讃線
④徳島線
※いずれも現在の名称

その経由地となる大川橋周辺の住民にとっては、広義的な意味では交通網で全国と繋がる願ってもないチャンスです。ただしそのためには駅がないといけません。鉄道省としては当地に駅設置の計画がなかったため、住民らが当局へ掛け合ったところ、多くの住民が鉄道を利用しやすいように吉野川へ橋を架けることを条件としました。
※鉄道省→国鉄→JR

大河川である吉野川への架橋は技術的には可能な時代にはなっていましたが、それには巨額の費用が必要です。それは鉄道省が捻出してくれるものではありませんし、地域住民らで負担するにはあまりにも大きな金額です。
そこで登場したのが山林王の異名を持ち三縄村川崎在住の赤川庄八氏でした。同氏は林業や酒造業で財を成していた人物ですが、架橋費用約5万8千円を私財から用立て実現にこぎつけました。現在の貨幣価値に置き換えると1億円を超す金額になります。

 

大川橋の開通から終焉まで

大川橋架橋方法

かくして大川橋は昭和8年(1933)着工、昭和10年(1935)11月15日開通し、それは土讃線開通の13日前のことでした。

開通当初は大人2銭・小人1銭・自動車等20銭が必要な有料の橋だったことから、地元では「賃取り橋」の名称で呼ばれたそうです。この時代の1銭が凡そ現在の100円くらいの価値があるので、それでいくと車両はなかなかの通行料金な気がします。ただしこの時代に車両で対岸へ渡る手段が他にはありませんし、自動車を所有していたとすれば十分な蓄えがある分限者か乗合自動車(=バス)などの事業を行っている者でしょうから、その通行料金は妥当な金額な気もします。

昭和10年(1935) 開通
昭和37年(1962) 池田町に寄付され無料化
昭和48年(1973) 歩行者専用橋に
平成30年(2018) 通行止め
令和2年(2020) 橋脚を残して解体

私は国道32号に面したこの場所は何度通ったことかわからなくなるぐらい通行していて、それは通行止めになる平成30年以前も高知県へ行く際などに通っているので、どうして今まで気が付かなかったのが不思議です。通行はできなくなっていたとしても令和の時代になっても現存はしていたので撮影はできたのは良かったのですが、なぜ在りし日に気が付かなかったのか後悔しきりです。

 

徳島県にとって吉野川架橋は夢

大川橋_橋脚のみ

橋桁は撤去されましたが、左岸右岸に立つ橋脚は健在で、「橋川大」の浮彫も確認できます。

吉野川では池田地域周辺の中流域を中心に、旧大川橋のような川岸に橋脚だけが立っている箇所をいくつか目にすることができます。それは同橋のように供用されていたものとは限りません。同じように地域で架橋の機運が高まりスポンサーが名乗り出たものの、着工後に出資者の本業が悪化して資金を捻出できなくなって工事が中止されたり、出資者が病気で亡くなって工事中止など、途中まで完成していた橋の構造物が放置されて、今もそのままになっている例は一つ二つではありません。
吉野川における架橋ブームは大正時代が多かったといわれますが、その時代は第一次世界大戦後の不景気やスペイン風邪の流行などがあり事業を営む者にとっては収入が安定しなかったことが予想できます。

吉野川への架橋や未完成に終わった話は池田地域周辺の中流だけではなく、徳島市に近い下流部でも聞かれる、徳島県の近代史を語る上で必ず登場するエピソードです。

池谷駅

阿波電気軌道に由来する現在の徳島県鳴門市にある池谷駅は、高徳線と鳴門線の分岐駅で、隣の板東駅は1番札所霊山寺の最寄り駅なので、この駅を経由して四国八十八ヶ所霊場参りを始めるお遍路さんは多いのではないでしょうか。

戦前に吉野川下流への架橋を果たせなかった「阿波電気軌道」という鉄道事業者が存在します。現在の鳴門線や高徳線の一部を敷設した鉄道事業者です。社名に電気軌道とあるように電車の運行を目指しました。
吉野川各地で起こった架橋構想の中でも同社の構想は一際スケールが大きいもので、鳴門から徳島へ電車を走らせるために吉野川架橋を目指すものでした。しかしながら肝心の電力供給が、当時の徳島に存在した電力事業者の発電能力に余裕がなかったため断られ、自前の発電所を設ける余裕が同社になかったことから、大正5年(1916)7月に暫定的に蒸気鉄道で開業しました。
また、阿波電気軌道は徳島市街地(=吉野川南岸)まで鉄道免許状を下付されていましたが、資金難により吉野川架橋は先送りになり、北岸から南岸への移動は蒸気船連絡という暫定措置が取られました。吉野川連絡船と呼ばれた鉄道連絡船の航路は、吉野川から新町川へ入り、いくつかの乗降所が設けられ、新町橋(現在の徳島駅と眉山ロープウェイの間にある橋)や、最盛期には富田橋(現在の徳島県庁付近)まで運航されていました。

とはいえ、同社の経営環境は厳しかったようで、大正15年(1926)5月には阿波鉄道に社名変更(※電車は諦めた)され、昭和8年(1933)7月には国有化されて、民間の鉄道会社としての歴史を閉じています。よって阿波鉄道阿波電気軌道が掲げた「電車」「吉野川架橋」は果たすことができなかったわけですが、後者に関しては国有化以降の昭和10年(1935)3月に吉野川架橋が実現して、吉野川北岸から徳島市街地へ鉄道乗り入れを果たしています。
電車(※電気を動力として走る鉄道)の運行関しては以降も実現されることはなく今に至ります。よって徳島県は電車が走ったことがない全国唯一の県であり続けています。

 

大川橋架橋によって誕生した祖谷口駅

祖谷口駅_線路

奥の電灯がある場所が祖谷口駅で、踏切の名称に大川橋の由来になった左岸集落「下川」の名前を見ることができます。

この地では鉄道省から提示された吉野川への架橋を民間の力で実現して「祖谷口(いやぐち)駅」を設置することができました。出資者の赤川庄八氏と地域住民の熱意は地域の歴史に残る偉業であると感じます。

祖谷口駅は吉野川左岸の丘の上にありますが、旧大川橋がある国道32号の交差点から徒歩2,3分で来ることができます。

祖谷口駅_時刻表

祖谷口駅への発着は各駅停車のみで1日あたり7.5往復ですが、特急列車がおおむね1時間に1往復通過するので、列車自体はそこそこ見ることができます。

観光列車の「四国まんなか千年ものがたり」も停車こそありませんが、祖谷口駅を通過します。

祖谷口駅_プラットホーム

祖谷口駅のプラットホームに上がってみると、「いやぐち」と掲げられた電柱の右側に旧大川橋の橋脚が見えています。

線路の曲線に合わせてプラットホームがカーブしていますが、谷間という土地の制約ゆえか、元々計画になかった場所に駅を設置したためか、走行する列車を見学するのであれば、カーブしている列車の顔だけでなく車体も見ることができるメリットがあります。

 

大川橋の後継橋と祖谷渓へのアクセス

祖谷口橋

祖谷エリアの名所である小便小僧やケーブルカーで行く温泉、V字型の祖谷渓などへは、現在は祖谷口橋からアプローチします。

大川橋が役目を終える契機になった新橋が青いアーチ橋の「祖谷口橋」で、昭和48年(1973)に竣工しました。
赤い橋は川崎橋で、赤川庄八氏の出元である川崎集落につながっていて、集落には三好市百年蔵と呼ばれる施設がありますが、同氏が営んでいた酒造所を改修した建物が活用されています。現在の川崎橋は二代目で昭和45年(1970)の竣工ですが、初代川崎橋は大正9年(1920)竣工です。大川橋が竣工したのが昭和10年(1935)なので、大利と川崎(赤橋の右が川崎、左が大利)の間にはそれより古くから橋があったことになります。

橋名や駅名の通り、かずら橋など祖谷へ向かう祖谷街道の起点となるのがこの場所になります。しかしながら、ここから祖谷方面へは道が狭いため、対向車が来た際などの離合が大変です。かずら橋へ行くのであれば祖谷口からではなく、大歩危を経由するほうが道幅は広いです。

 

現在の徳島県三好市のかつて吉野川にかかっていた大川橋の変遷をご紹介しました。現代では当たり前になっている道路橋や鉄道橋の架橋には日本の産業発展や地域の苦労の歴史があります。お遍路道中で、かつての地域の姿や先人達の偉業に目を向けてみると、新しい発見があるかもしれません。

 

【「旧大川橋」 地図】

四国遍路巡礼に
おすすめの納経帳

千年帳販売サイトバナー 千年帳販売サイトバナー

この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。