【64番札所前神寺→65番札所三角寺】公園のような場所に移設されている中務茂兵衛標石

65番札所三角寺を目指して登り坂が始まった地点。この時点で遍路道はまだ住宅街の中を進みますが、小さな公園の隅に移された中務茂兵衛標石が残されています。

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四国中央市の公園らしき場所に移設された標石 立地

見えている面は左面・正面

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容

四国中央市の公園らしき場所に移設された標石 正面上部

塗料がかかった大師像が痛々しい

<正面上部>
左右(指差し)
前上寺
三角寺
大師像

前上寺(ぜんじょうじ)→現・64番札所前神寺(まえがみじ)
三角寺→65番札所三角寺(さんかくじ)

この部分の特筆点は「前上寺」の表記です。
石鈇山(いしづちさん)の別当寺及び64番札所として機能してきた前神寺(里前神寺。現在の石鎚神社口之宮本社付近にあった)ですが、明治元年(1868)の神仏判然令を受けて「石鉄神社と改称すること」「それまでの権現像は別に祀ること」の裁定が下り、時の住職による抵抗も虚しく(旧)前神寺は明治8年(1875)に廃寺になります。その後明治12年(1879)に檀家らによって「前神寺復旧出願」が出され、「現在地に移転」「名称を前上寺(ぜんじょうじ)とすること」との条件付きで復興が許されました。許可を与えたのは愛媛県ですが、この時点ではまだ廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮が残っていて、明治政府への忖度や県民感情を考慮しての決定だったのかなと感じます。
前神寺への旧称復帰が許されたのは明治22年(1889)。標石の建立は明治38年(1905)なのでもう前神寺を名乗って良くなっている頃ですが、その点は表記が曖昧だったのか、施主の意向か。遠方の施主さんのようなので、前上寺から前神寺への旧称復帰がアップデートされていなかったのかもしれません。
建立年については左面、施主情報については正面下部で紹介させて頂いております。

四国中央市の公園らしき場所に移設された標石 正面下部

上津役は「こうじゃく」と読む難読地名

<正面下部>
筑前國遠賀郡上津役村
施主
大和與市
●●


筑前國遠賀郡上津役村(ちくぜんのくにおんがぐんこうじゃくむら)→現・福岡県北九州市八幡西区上津役(ふくおかけんきたきゅうしゅうしやはたにしくこうじゃく)

明治22年(1889)4月…遠賀郡上津役村
昭和12年(1937)5月…合併により八幡市
昭和38年(1963)2月…合併により北九州市

上津役村は周辺の町村が次々に八幡市や若松市などと合併していく中で、昭和前期まで独立を保ち続けた自治体。昭和12年(1937)に八幡市と合併。その八幡市が昭和38年(1963)に近隣自治体と合併して北九州市になったため、かつての上津役村の領域は現在政令指定都市、以前は100万人都市の一部だったということになります。

「筑前(ちくぜん)…福岡市など」「筑後(ちくご)…久留米市など」「豊前(ぶぜん)…北九州市など」
旧3ヶ國の領域がおおよそ現在の福岡県の領域ですが、北九州市は「筑前」「豊前」の二國に跨るエリアを市域としています。
門司・小倉…豊前 →北九州市東部
戸畑・若松・八幡…筑前 →北九州市西部

施主の名前が複数名記載されているので、こちらの地域の人々が力を合わせて建てた石のようです。

 

標石の右面に表記されている内容

四国中央市の公園らしき場所に移設された標石 右面上部

民家の壁が近く写真が撮りにくい

<右面上部>
弐百七度目為供養建之
周防國大島郡椋野村住
願主 中務茂兵衛義教
(↓下部にまたがる)

四国中央市の公園らしき場所に移設された標石 右面下部

四国中央市の中務茂兵衛は200度前後が多い

中務茂兵衛「207度目/279度中」の四国遍路は自身61歳の時のもの。四国中央市の中務茂兵衛標石に広く見ることができる「世話人 森実春治」さんとの出会いのタイミングが、この辺りの回次が分布することになったのかなと考えることができます。

 

標石の左面に表記されている内容

四国中央市の公園らしき場所に移設された標石 左面

標石が建てられたのは日露戦争終結の頃

<左面>
明治三十八年八月吉辰
世話人 三島金子
●●

明治38年は西暦1905年。前年2月から始まった日露戦争。交戦一年が過ぎ、ロシアでは日本軍に対して相次ぐ敗退に民衆の不満が爆発。日本は長引く戦争によって国力を大きく上回る戦費・兵力を費やしており、両国とも戦闘続行は困難な状況になっていた。
そこでアメリカ合衆国の仲介により講和交渉が始められたのが標石と同年の8月10日。翌月、ポーツマス条約締結となり18ヶ月に及ぶ日露戦争が終結しました。

写真の右下に「世話」の字が見えます。こちらは「三島金子」と続き他の部分が見えません。おそらく世話人リピーターさんの森実春治さんが携わっているものと思われます。

※世話人リピーター「森実春治」さんに関しては、以下リンクの記事でも触れていますのでぜひご覧になってみてください。
【別格14番札所椿堂近く】愛媛県最東部に位置する内容盛りだくさんな中務茂兵衛標石
【別格13番札所仙龍寺近く】奥の院への入口にあたる場所に残されている大きな標石
【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】遠く土佐國まで続く旧土佐街道沿いに残されている標石
【64番札所前神寺→65番札所三角寺】地域の大師堂前に残されている中務茂兵衛標石
【64番札所前神寺→65番札所三角寺】国会議員を務めた人物によって建てられた標石
【64番札所前神寺→65番札所三角寺】かつての金毘羅街道と新しいバイパスとの交点で見ることができる大きい標石
【64番札所前神寺→65番札所三角寺】施主住所に北海道6区時代の住所が記されている標石
【64番札所前神寺→65番札所三角寺】古書の街で暮らす施主らが寄進した中務茂兵衛標石

 

すぐ近くにまとめられている標石

四国中央市 標石群 公園の標石

四国中央市内には茂兵衛さんの石より多くの遍路標石が存在します

昔も今も土佐・伊予・阿波・讃岐(金毘羅)の四街道が分岐する地点なので、道標の必要性は地元住民さんたちも心得ていたようです。

四国中央市 標石群

それぞれ判別し易い保存状態

<左>
左(指差し)
右さんかく寺道
左はし久ら寺道

<中>
右(指差し)
右へんろ道
三角寺三十丁

<右>
左三角寺ミち三十丁

さんかく寺、三角寺→65番札所三角寺
はし久ら寺→別格15番札所箸蔵寺

おそらく元からあったものではなく、管理上の都合でこの場所にまとめられたものと察します。

 

【「四国中央市の公園らしき場所に移設された中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。