【71番札所弥谷寺→72番札所曼荼羅寺】大師修行の霊山を臨む位置に立つ中務茂兵衛標石

幼少時代の弘法大師空海ゆかりの霊場であり、捨身ヶ岳禅定が行われた我拝師山。その山を臨む池のほとりに中務茂兵衛標石が残されています。

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71番→72番 捨身ヶ岳を臨む標石

中務茂兵衛標石の密集地帯。数百mおきに石をみることができる

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 肖像

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容

71番→72番 捨身ヶ岳を臨む標石 正面

近年、池の改修工事より護岸。標石の判別が容易になりました

<正面上部>
右(指差し)
七拾三番
出釈迦寺

明治に建てられた「中務茂兵衛標石」と、平成に建てられた「四国の道」の標石が並んで立ちます。地面とガードレールがとても綺麗なのは、ごく最近に池の護岸工事が行われたため。工事以前は四国の道の石がガードレール前、茂兵衛さんの石がガードレールに隠れるような形になって見辛かったので、どちらもすっきり見易くなりました。下部の埋没もありません。

71番→72番 捨身ヶ岳を臨む標石 拡大

全体的に保存状態が良く判別が容易

<正面下部>
施主
備中国川上郡手荘村
大月常五郎(?)
仝トヨ

備中国川上郡手荘村(びっちゅうのくにかわかみぐんてのしょうむら)→現岡山県高梁市川上町(おかやまけんたかはししかわかみちょう)

明治22年(1889)6月…町村制施行により手荘村
昭和25年(1950)4月…町制施行により手荘町
昭和29年(1954)4月…町村合併により川上町
平成16年(2004)10月…市町村合併により高梁市 ※現行

旧手荘村は現在の広島県との県境に位置する街。手荘は「荘」の字が表す通り、古くは朝廷関係の所有地があったと想像することができます。
香川県に残されている茂兵衛さんの標石を調査していると、岡山県の施主さんの石を多くみることができます。これは香川県の対岸が岡山県という位置関係、からくるものでしょうか。近い=馴染み?
そして第72番曼荼羅寺(まんだらじ)周辺がそうであるように、標石がある場所が密集していることが特徴。道のりの長さからいえば徳島県南部や高知県、愛媛県南部(南予)のような距離が長い場所に一定間隔で位置しているのが良いのでしょうが、そこはスポンサーを募る関係上不均等になってしまう事情があるのかもしれません。

 

標石の右面に表記されている内容

71番→72番 捨身ヶ岳を臨む標石 右面

去日とは、建立月の師走と掛けているのか

<右面>
明治弐拾六年十弐月去日建之

明治26年は西暦1893年。同年同月、会津藩第9代藩主・松平容保(まつだいらかたもり/1836-1893)が肺炎により薨去(こうきょ)しました。
奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)により旧幕府軍の代表として戊辰戦争(ぼしんせんそう/1868-1869)を戦いましたが、所領で勃発した会津戦争に敗北。朝敵の汚名を着せられ、当時未開の地で実入りが悪い斗南藩(となみはん、現青森県下北半島)へ飛ばされる等、数々の辛酸を舐めました。
ちなみに茂兵衛さんは22歳の時、西暦1867年に四国へ渡り遍路に身を投じているので、戊辰戦争と同時期に四国遍路を行っていることになります。

「明治26年12月の去る日」
こちらの標石は、大きさこそ標準的なもののフォントが特徴的なのと言い回しが独特。「去る日」「或る日」、どちらも良い意味で日を濁す言い回しですが、こちらは12月の建立。「去日(さるひ)」としているのは、師走と掛けているのかなと思えて、なかなか妙味があります。

 

標石の左面に表記されている内容

71番→72番 捨身ヶ岳を臨む標石 左面

いくつか独自の表現を見ることができる

<左面>
四国一百三十三度目拝礼為供養
周防国大島郡椋野村住
願主 中務茂兵衛義教

中務茂兵衛133度目(279度中)の四国遍路は自身49歳の時。巡拝回数の上に「四国」が付くことや、「拝礼(はいれい)」は他ではあまりみることがない表現です。

 

標石がある場所

71番→72番 捨身ヶ岳を臨む標石 場所

当標石は、一つ前の標石から見える位置にある

一つ前、舟形後背(ふながたこうはい)の地蔵菩薩像と並んで立っている中務茂兵衛標石との位置関係はご覧の通り。当標石とは100mも離れていません。その前後もまた数百mの間隔で標石が存在しています。この密集具合は、やはり大師の生まれ故郷・善通寺市といったところです。
※一つ前の標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

リンク

茂兵衛さんの石に限らず、古い標石の情報は「建立当時のもの」。位置は「道路工事等で変わっている可能性が大」です。
もちろんそうでない石も存在しますが、方角等を告げる道しるべとしての機能は期待してはいけません。遍路史跡として観察するようにしましょう。

※71番札所弥谷寺から74番札所甲山寺の間には多くの中務茂兵衛標石が残されています。順打ち道順の次の標石に関して以下リンクの記事でご紹介しています。

【72番札所曼荼羅寺と73番札所出釈迦寺の分岐点】札所密集地の五差路の脇に立つ中務茂兵衛標石

 

【「72番札所曼荼羅寺手前の池の分岐点の中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。