85番札所八栗寺から下山して少し歩いた場所にある「道の駅源平の里むれ」。多くのお遍路さんはそちらでお手洗いなど休憩を取られるのではないでしょうか。そこを出発してすぐの場所、国道11号交差点付近に中務茂兵衛標石があります。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。
22歳の頃に周防大島を出奔(しゅっぽん)。それから一度も故郷に戻ることなく、明治から大正にかけて四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので殆どが徒歩。 歩き遍路としての巡拝回数は最多記録と名高く、今後それを上回ることは不可能に近い。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石(しるべいし)の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで200基以上。札所の境内、遍路道沿いに数多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面上部>
左(指差し)
志度寺
長尾寺
志度寺→86番札所志度寺(しどじ)
長尾寺→87番札所長尾寺(ながおじ)
正面・左面にそれぞれ2ヶ寺ずつ。都市名が記されている面もあり、扱っている情報の範囲が広い印象を受けます。
<正面下部>
為近藤氏先祖代々供養
正面上部で「扱っている情報の範囲が広い…」と触れましたが、こちらの部分は一族の供養に触れているだけですっきりしています。標石を代表する正面なのに?と一見思ってしまいますが、最も伝えたいことがこの部分なのかなとも感じます。
標石の右面に表記されている内容
<右面>
明治二十九年十一月吉辰
明治29年は西暦1896年。同年10月、株式会社川崎造船所が設立。現在の川崎重工業です。同社の製品は身近なところでは鉄道車両やオートバイ。大きなものでは飛行機の機体や船舶、自衛隊の潜水艦やミサイルなどの製造も行う、日本を代表する重工業メーカーがこの年に誕生しました。
なお初代社長に就任した松方幸次郎は、第4代・第6代内閣総理大臣を務めた松方正義(まつかたまさよし/1835-1924)の三男。同社設立に当たり明治19年(1886)に官営兵庫造船所が払い下げを受けていることから、その辺りの事情もあったのかなと思われます。
標石の左面に表記されている内容
<左面>
右(指差し)
屋島寺
八栗寺
當國三木郡上高岡村
財主
●●
●●
屋島寺→84番札所屋島寺(やしまじ)
八栗寺→85番札所八栗寺(やくりじ)
正面に続き、こちらの面にも二つの札所名と方角が記されています。
當國三木郡上高岡村(とうこくみきぐんかみたかおかむら)→現・香川県木田郡三木町氷上(かがわけんきたぐんみきちょうひかみ)
明治11年(1878)12月…郡区町村編成法により三木郡発足 ※当時愛媛県
明治21年(1888)12月…香川県の管轄に変更
明治23年(1890)2月…町村制施行により氷上村
明治32年(1899)4月…郡制施行により三木郡・山田郡が合併。木田郡氷上村
昭和27年(1952)1月…合併により田中村
昭和29年(1954)10月…合併により三木町
標石がある牟礼町もかつての木田郡ですが、施主住所として記されている上高岡村は現在の三木町。第85番八栗寺や第86番志度寺より、第87番長尾寺の近い場所です。
標石の裏面に表記されている内容
<裏面上部>
左
高松
丸亀
石が立っているのは国道11号沿い。この道を西に進めば香川県を代表する二都市に行くことができます。茂兵衛さんの時代は今の様な道幅・舗装路は無かったと思いますが、主要国道は旧街道を基に造られることが多いので、現在の国道の前身になるような道があったものと想像します。
<裏面下部>
臺百五十二度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主 中務茂兵衛義教
中務茂兵衛「152度目/279度中」の四国遍路は自身52歳の時のもの。石自体はしっかりしているものの字がやや薄い印象で、判別が難しい面があります。
【「牟礼町国道11号沿いの中務茂兵衛標石」 地図】