76番札所金倉寺を出てすぐ。有名讃岐うどん店のある交差点の脇に、中務茂兵衛標石を見ることができます。古い石ながら字の判別が容易で、この標石が建立された同年同月に日本とトルコの友好の礎となる出来事がおこりました。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面>
左(指差し)
道隆寺
丹波國多紀郡大山町之田村
金倉寺出張所
大師堂施主●●
76番札所金倉寺(こんぞうじ)を出て北に向かってすぐの地点。道路工事の際に移設された標石ですが、再建の際に若干向きを誤っているように思います。別の場所にあったものかもしれませんが、元々この位置にあったものだとすれば、時計回りに90度回転させれば表示内容と合います。
道隆寺→77番札所道隆寺(どうりゅうじ)
丹波國丹波國多紀郡大山町之田村→現・兵庫県丹波篠山市町ノ田
大山町之田(おおやまちょうこれた)かと思ったら切る場所が違っていて「大山(村)町之田(おおやままちのた)」が正解でした。丹波篠山市の北西部に当たります。
現在の京都府中部・大阪府北部・兵庫県北東部にまたがる「丹波國(たんばのくに)」
明治の廃藩置県によって各府県に分割されましたが、このことが篠山の市名に「丹波篠山市」と「丹波」を冠することになったといえます。
平成の大合併の先陣を切る形で、平成11年(1999)4月1日に誕生したのが「篠山市」。
特産品の「黒大豆」に代表されるような「丹波」ブランドを発信する中心地となることを期待されての発足でした。
平成16年(2004)11月→兵庫県丹波市
平成17年(2005)10月→京都府京丹波町
平成18年(2006)1月→京都府南丹市
しかしながらその後、周辺に「丹波」を冠する自治体が続々誕生。逆に篠山市だけが「丹波」を冠さないようになり、「丹波」ブランドを目指して篠山を訪れる人々が減少する懸念が生まれた。そこで新元号発足当日である令和元年(2019)5月1日に市名が「丹波篠山市」に変更されました。
それまでも市のPR等では「丹波篠山(たんばささやま)」の呼称が用いられてきたので、通称が正式名称になった形。それによって道路標識や公式文書などを一式変更する必要が生じることで、その費用と作業に関して物議を醸した市名変更でもありました。
金倉寺出張所
大師堂
とあるので、おそらく町ノ田村に金倉寺とご縁のある寺院もしくは大師堂がありそこが施主となった、という感じでしょうか。
それにしても何鹿郡綾部町(いかるがぐんあやべちょう)の施主グループなど、明治20年代前半の中務茂兵衛標石には丹波國の施主を多く見ることができます。石が建てられた時代、当地で盛んだった繊維産業。丹波國の一部や隣の但馬國は、そこで生産される生糸に着目する形(=実入りが良い)で、神戸という一大港湾を擁する兵庫県に編入されたといっても過言ではありません。
標石の施主が多い点も、当時丹波が比較的豊かであったことを表す一例であるように思います。
※何鹿郡綾部町の施主が建立した標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。
【71番札所弥谷寺→72番札所曼荼羅寺】繊維産業の街の寄進者らによる中務茂兵衛標石
【10番札所切幡寺→11番札所藤井寺】かつて遍路道と伊予街道が合流する地点に立っていた標石
標石の右面に表記されている内容
<右面>
明治23年大陰9月吉辰
明治23年は西暦1890年。同年同月、オスマン帝国(トルコ)の軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県紀伊半島の先端・潮岬(しおのみさき)東方に位置する紀伊大島沖で岩礁に激突して座礁、沈没。500人以上が亡くなる大惨事が発生しました。
事故発生の報を受けて、事故現場である樫野地域の住民たちは夜を徹して救助活動に当たり、救助された69人を樫野の寺院や学校に収容。住民は非常用の食糧を惜しげも無く差し出すなど、言葉が通じない異国の遭難者たちの介抱に努めた。一連の出来事は樫野の村長を通じて和歌山県知事から日本政府へ報告。その話は明治天皇の耳にも入り、手厚い保護が施されました。
その後生存者たちは神戸へ移送され、日本海軍の軍艦二隻に分乗して翌年オスマン帝国の首都・コンスタンティノープルへ帰国することができた。このことはトルコでも大きく取り上げられ、その後発生した日露戦争においては日本がロシアに勝利したことと合わせて、日土友好の礎となりました。
※土→土耳古(トルコ)
当時は日本・トルコ共にロシア帝国の南下政策に脅かされていたところで、いわばロシアは日土共通の敵。日露戦争での辛勝の報には日本だけでなくトルコも熱狂。この時代、トルコでは日本海海戦を率いた東郷平八郎提督にちなんで、子どもの名前に「トーゴー」と名付けることが流行したといいます。
近年でエルトゥールル号のエピソードが登場した機会といえば、2002FIFAワールドカップ。アジア初・日韓共催という大会で、日本は初めて決勝トーナメントに進出。その時に当たった対戦相手がトルコだった。国際試合では相手国の紹介や両国のエピソードが披露されることがありますが、この時にエルトゥールル号救助のエピソードが紹介されました。100年少し前に起きた日本とトルコの接点に、勝負事とはいえ和やかな雰囲気になったことは記憶に新しいところです。
年月に付け加えられる形で「大陰(たいおう)」とありますが、八将神(はっしょうじん)と呼ばれる神の一体。「たいいん」「だいおん」とも読み、「太陰」とも書く。太陰は単体では月を意味することがあります。
これは想像ですが金倉寺に祀られている神仏の一体に、子授けや安産を司る「訶梨帝母(かりていも)」が祀られています。大陰神はそのご利益とは対極になるので、寺の北に位置するこの場所(=対極)の守護を務めるような、そんな意味なのでしょうか。この点は勉強不足です。
標石の左面に表記されている内容
<左面>
右
金倉寺
臺百十五度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主 中務茂兵衛義教
周防國大島郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら)→現・山口県大島郡周防大島町椋野(やまぐちけんおおしまぐんすおうおおしまちょうむくの)
中務茂兵衛「115度目/279度中」の四国遍路は自身46歳の時のもの。
香川県で見ることができる中務茂兵衛標石の回数は、100回前後のもの(=明治20年代前半)が多い特徴があります。キャリアとしては中盤より以前。そして回次が近い他の石と比べると、回次の進み方が200回台より早いことが分かります。まことに勝手な想像ですが、100度目から150度目くらいが中務茂兵衛全盛期だったのかなと勝手に想像しています。
【「76番札所金倉寺北の中務茂兵衛標石」 地図】