愛媛県最初の札所である40番札所観自在寺から次の41番札所龍光寺へ向かう終盤、三間盆地へ向かって県道57号を登る道中に中務茂兵衛標石が残されています。この標石は「菊花」と建立した季節を表す記載がある風流なものです。
中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>
周防國大嶋郡椋野村(現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。
標石の正面に表記されている内容
<正面>
右左(指差し)
施主
大阪府西成郡西中島村
石原亀太郎
仝市曽根﨑中二丁目
大内せ以
仝すて
仝福造
※「仝」は「どう」と読む
全面を見渡しても札所の名称や距離は記されておらず、単純にこの道が遍路道であることを知らせる内容(県道工事の際に位置が若干移されているものと思われます)。
施主は現在の大阪市の人物ら。
前者の「西成郡西中島村」は現在の大阪市淀川区西中島1丁目-7丁目。「新大阪駅(JR・新幹線、大阪メトロ御堂筋線)」を北端として、淀川河川敷公園までの南北に細長い地区。町内南部には「西中島南方駅(にしなかじまみなみかた、大阪メトロ御堂筋線)」・「南方駅(みなみかた、阪急京都本線)」の合計三駅が存在。JR・地下鉄に乗って近くの梅田(=大阪駅)へ、新幹線に乗車して東西の長距離移動にもとても利便性が高い地域です。
明治22年(1889)4月 町村制施行により西成郡西中島村(にしなりぐんにしなかじまむら)発足
大正12年(1923)6月 町制を施行して西中島町
大正14年(1925)4月 大阪市に編入。東淀川区の一部になる
昭和49年(1974)7月 JR東海道本線を境に分区。淀川区の一部になる(現区域)
後者の「仝市曽根﨑中(どうしそねざきなか)」は、現在の大阪市北区曽根崎1丁目-2丁目。大阪駅(JR)の南東の歓楽街が広がるエリア。「梅田」や「キタ」といえば、この辺りを指します。また、江戸時代にヒットした近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の浄瑠璃作品「曽根崎心中(そねざきしんぢゅう)」の舞台となった地。物語に登場する「お初天神」こと露天神社(つゆのてんじんじゃ)があります。
今でこそ梅田は大阪の二大歓楽街「キタ」として君臨していますが、江戸時代以前は「埋田」と記された低湿地地帯。曽根崎も「埆崎」、石混じりの痩せた土地を意味する字が充てられていた。淀川の下流地帯で洪水も多く、使い勝手が悪い土地だったようです。それが故に鉄道を誘致することが容易で、そこを中心として河川改修や土地改良が進められて「大阪の玄関口」の地位を得ることができた、ともいえます。
標石の右面に表記されている内容
二百二十九度目為供養
周防國大島郡椋野村住
發願主 中務茂兵衛義教
中務茂兵衛229度目の四国遍路は自身65歳の時になります。
標石の左面に表記されている内容
明治四十二年九月菊花之辰立之
明治42年は西暦1909年。同年7月31日に明治期では最大の火災とされる「天満焼け(てんまやけ)」が発生。現在の北区の大半が焼失しました。
こちらの標石には、まさに北区曽根崎2丁目の施主らが数名記されています。同じ町内にある「お初天神(おはつてんじん)」が罹災したとあるので、もしかしたらこちらの施主たちも被災して家を失われているかもしれません。火災の規模は明治以降最大(空襲を除く)ので焼失戸数約11,000戸、罹災者数は45,000人を超えていますが、亡くなられた方は3名と少ない。これは明治以降の大阪では度々大火が発生しており、市民の防災意識が高かったことが功を奏したようです。
標石の建立はその2ヶ月後なので、標石建立が施主たち始め曽根崎復興への足掛かりになっていれば幸いです。
趣味・仕事柄、数多くの標石を見ておりますが、建立年度に花が記されているものは今のところ41番札所龍光寺を目の前にした宇和島市三間町に残されているこの標石だけ。手紙の書き出しや俳句の季語のような、季節と花の美しさを想像することができる、風流な標石になっています。
【「三間盆地手前の中務茂兵衛標石」 地図】