人は川や海の上を歩くことはできません。昔のお遍路さんは、四国各所の水辺で渡し舟を利用していました。四国第二の大河・四万十川を渡る際も同様で、四万十川で最後まで残った河口の渡し舟は、かつてお遍路さんも利用していました。
写真は筆者が初めて歩き遍路を行った平成17年(2005)6月のものです。
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
四万十市(しまんとし)
中村(あしずり)
下田(しもだ)
初崎(はつざき)
黒潮町(くろしおちょう)
田野浦(たのうら)
四万十川河口の環境
四国第二の大河・四万十川の流長約196kmの終点は、高知県四万十市下田付近。河口部左岸の掘り込まれた港の周囲に広がる街が下田です。かつての四国遍路は下田から対岸の初崎まで市が運営する渡し舟を利用して移動していました。
しかしながら平成8年(1996)に少し上流の位置に四万十大橋が開通。渡船の利用者が減り、船舶の老朽化も相まって平成17年(2005)12月をもって河口渡船が廃止。下田集落は通らなくなり、手前の黒潮町田野浦付近から四万十大橋が架かる四万十市竹島へ向かう経路が地図に記載されるようになりました。
※四万十川河口付近の遍路道の様子は、以下リンクの記事でご紹介しています。
【37番札所岩本寺→38番札所金剛福寺】足摺と中村城下の分かれ又に立つ標石
【37番札所岩本寺→38番札所金剛福寺】四万十川渡し場分岐に残された中務茂兵衛標石
市営渡船・みなと丸
自分が乗船した平成17年5月の時点で、渡し舟が一日に運行される便数が一日5便。
その出港時間がわかっているからといって、歩き遍路だと乗船前の丁度良い時間に下田港に到着とはならないものです。ずいぶん早く港に到着してしまったので、現地でのんびり待っていた記憶があります。今思えば、遍路道中で日中に何もせずに待つなんて、他ではなかったように思います。5月で写真の通りの天候だったこともあり、本当に有意義な休息の時間でした。
やがて出港時間が近づいたところで自転車に乗った男性が現れて、
「お遍路さん、船乗るが?」
「はい」
遍路格好のまま乗船させてもらうと、
「そこのカゴの中にお金入れとって」
料金はたしか100円でした。
【「下田港 下田初崎の渡し乗船場」 地図】
船から見える河口の景色
掘り込まれた下田港を出て、これから四万十川河口を横断します。
港の出入口にある砂の丘。波が運んだ土砂が堆積して砂州を形成しているのですが、これが海と川の交わり合う複雑な流れを制止、船舶の安全航行に寄与しています。
河口は海水と淡水が交わる「汽水」と呼ばれる塩分濃度の低い水域。左側は砂州があるくらいなので浅いのでしょうが、右の山が迫り出している部分は、いかにも深そうです。
この環境を好むのが、怪魚として語られる四万十川の主「アカメ」。成長すると1mを超す大型魚は、釣り人にとって憧れの存在。有名釣りマンガ「釣りキチ三平」にも、「四万十川のアカメ」は登場しました。大型肉食魚、すなわち食物連鎖の頂点に立つアカメは、そもそもの生息数が少なく、国内では宮崎県の一部の川や高知県で見られるのみ。そのミステリアスな生態も人気の秘密です。
現在の四国遍路のメインルートになっている四万十大橋と、その向こうに中村市街が見えます。近代橋が架かったといってもそれは上流この距離。住民の対岸への行き来や、足摺へ向かうお遍路さんにとって渡船は重要な交通手段でした。
四万十川河口右岸・初崎港
間もなく対岸の初崎港へ到着します。下田と比べ、こちらの集落は大きくはありません。
初崎港に立っていた渡船場の案内。四万十川で最後まで残った渡船でした。
数年後、有志によって復活した下田初崎の渡し
下田から初崎まで乗せてもらった渡船は、折り返し初崎から下田へ向けて出港しました。
行き→自分一人。帰り→乗客0。
自分にとってこれが最初で最後の乗船。同年12月に四万十川最後の渡し舟は廃止になりました。当時の写真が無いものか探してみましたが、残ってて良かったです。
下田初崎の渡し廃止後、下田地区の住民らによって「下田の渡し保存会」が発足。前述の事情もあり復活に時間を要しましたが、平成21年(2009)に運航を開始。不定期ダイヤながら運航を再開しました。現在は予約制で、お遍路さんから乗船希望の連絡が入ると仕事を中断して港へ向かい、渡船に当たるそうです。また高潮など天候不良で船が出せない時は、対岸へ車に乗せて行くお接待を行う時もあるとか。
そのような状況での運営であるため、渡船を利用する場合はマナーに気を付けて乗船するように心がけましょう。
【「初崎港 下田初崎の渡し乗船場」 地図】