【香川県善通寺市】明治由来の古い構造を持つ善通寺駅[後編]

お大師さまが生まれた街の玄関口となるJR善通寺駅。四国遍路の長い歴史には及びませんが、街が歩んできた歴史と連動した部分を、駅構内で目にすることができます。

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善通寺駅 弘法大師看板

讃岐路は鉄道を利用しながら八十八ヶ所を回るお遍路さんも多い

 

文化財に指定されている跨線橋

善通寺駅 跨線橋

2番線に行くために渡る跨線橋にも駅と街の歴史が秘められている

こちらの跨線橋は明治22年(1889)の駅開業、とまではいきませんが大正11年(1922)の建造。同年11月、善通寺の第11師団で陸軍大演習が行われ、当時の皇太子さま(後の昭和天皇)が善通寺の地に滞在されました。
※駅開業時に建造された駅舎に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。

【香川県善通寺市】明治由来の古い構造を持つ善通寺駅・前編

その一大イベントに合わせて街では大小様々なものが建造されたようで、街に現存する建造物には「大正11年竣工」のものを多く見ることができます。皇太子さまが宿泊に利用された偕行社(かいこうしゃ)も同年の竣工。街の玄関口である善通寺駅にも大幅に手が入れられ、こちらの跨線橋やプラットホームの上屋などが建造されました。間もなく建造から100年を迎える跨線橋は、登録有形文化財の指定を受けています。

善通寺駅 跨線橋 天井

タイムスリップしたような跨線橋内部

建物の基礎は鉄骨、床はコンクリート。利用客を雨風から守る外壁は木製。他駅の古い跨線橋には木製の床板・壁板が存在することから、竣工当時は善通寺駅のこれらも木製だったかもしれません。

善通寺駅 跨線橋 壁 ガラス

残念ながら跨線橋上から駅とその周辺を見渡すことができません

ブリッジ部分にやってきました。高い窓と屋根を支える三角トラスが特徴的ですが、こちらはそれ以前に使用されていたレールが鉄骨に転用されています。

壁板や床のコンクリートは後年更新されているものと考えることができますが、基礎となる鉄骨と窓の位置は大正11年(1922)の建造当時のまま。ここでは窓の位置が善通寺という街を物語る、一つのポイントになります。

善通寺の街は日清戦争後の明治31年(1898)10月に四国四県を統括する陸軍第11師団が置かれた旧軍都。現在もその土地や施設の一部を利用する陸上自衛隊第14旅団善通寺駐屯地が置かれています。
跨線橋ができた大正11年(1922)当時、駅の周辺には今よりもっと広大な軍事施設が広がっていたことでしょう。跨線橋が架かることによって、街の発展と共に増加する乗客が駅内を安全に移動することができるようになったことは良いのですが、それによって通常は人が立つことができない高さに一般人が立ててしまいます。それはたかだか10数mの話ですが、そこから軍事施設を眺められてしまうことは陸軍として断じて許すことができません。鉄道自体も広義的には軍事や国防に関わる施設ともいえるので、その全貌を乗客に悟られていしまうことは陸軍にとって不都合です。
かといって全てを板で覆ってしまうと、跨線橋内は真っ暗になります。そこで明かり取りのために人間の上部に窓を設けた。現在ガラスがはめ込まれている南側も板で覆われて、上部のみ開口部があったかもしれません。それでいくと現代の窓はすりガラスで、跨線橋内からは背伸びなどしないと外の景色は見えません。今も自衛隊関係の制約が存在しているのかもしれません。

善通寺駅 跨線橋 北側の景色

善通寺駅跨線橋から多度津方面(北)を眺めたところ

背伸びして上部の開口部から、カメラのモニターを頼りに写真を撮ってみました。こんなことをしていると、時代が時代なら憲兵さんが飛んでくることでしょう。思い出されるのはドラマ「この世界の片隅に」に登場するエピソードですが、特に戦時中は風景の撮影はもちろんスケッチも厳しく禁じられていました。

現代の日本ではそのような制限は耳にしませんが、外国では鉄道施設の撮影は厳禁としている国があり、データの消去を求められる。メモリーカードを没収されるといった厳しい処置は、国家によっては今でも耳にする話です。

善通寺駅 跨線橋 南側の景色

善通寺駅跨線橋から琴平方面(南)を眺めたところ

三角屋根のプラットホーム上屋がレトロ感を醸し出しています。
四国内の幹線路線、そして軍都として機能してきた善通寺の街なのでプラットホームが非常に長いことが特徴です。現在は繁忙日程で増結される列車などを除き、列車が発着する部分はこれらの屋根がある部分で収まるか、それより短い車両が運用されています。

右奥に見えている山は、こんぴらさんがある「象頭山(ぞうずさん/524m)」

中央から左に向かってうっすらと連なっている山なみは「阿讃山脈(あさんさんみゃく)」
山の裏側は阿波國。別格15番箸蔵寺(はしくらじ)を経て高校野球で有名になった阿波池田(現・三好市)という位置関係。四国霊場関係でいえば、これより東(左)には別格20番大瀧寺(おおたきじ)別格1番大山寺(たいさんじ)。西(右)には第66番雲辺寺(うんぺんじ)。それぞれ阿讃山脈を構成する山の頂にそれぞれの寺院が位置していますが、いずれの札所も住所でいえば徳島県に属している点が興味深いところ。その理由は…山の徳島側の斜面が寺院の建造に向いているから、とかでしょうか、詳細は分かりません。

 

架線から見る国鉄の置き土産

善通寺 跨線橋 2番ホーム

ブリッジに設けられた窓の位置に街の歴史がみえる

跨線橋を渡り2番線に降り立ちました。改めて眺めてみても堅牢な造り。雪国の跨線橋であれば完全に囲っているものは珍しくありませんが、ここは殆ど雪が降らない讃岐平野です。

そして開業時から長らく存在しなかったものとして「架線が張られている」こと。
善通寺駅が所属する土讃線(どさんせん)は「多度津~金蔵寺~善通寺~琴平」の区間電化。すなわち線路上に電線が張られ、その電力を受けてモーターを動かして走る「電車」が運行することができる区間です(多度津-<電化>-琴平-<非電化>-窪川)。国鉄からJR四国に移管される目前の昭和62年(1987)3月に電化工事が完了しました。しかしながらこの架線一つにも小話が秘められています。

善通寺駅 架線

ことでん琴平線の架線

架線の張り方一つを取っても運行頻度等に応じていくつかの方式があり、こちらは列車のパンタグラフと触れるトロリー線(下の電線)と架線を支える吊架線(上の電線)が別になっている「シンプルカテナリー」と呼ばれる懸垂方式。新幹線を始め多くの電化区間で見ることができる方式です。

ことでん琴平線 架線

必要最低限に留められた土讃線の電化区間

こちらは善通寺駅の線路上に張られた架線。架線柱前後を除き吊られている架線が一本しか存在しません。列車のパンタグラフと触れて電力を供給するトロリー線と架線を支える吊架線が一体のこの方式は「直接吊架式(ちょくせつつりかけしき)」と呼ばれるもの。土讃線の短い電化区間ではこの方式が採用されています。
この方式のメリットは、架線が一本しかないため単純に工事・維持費用の低減を図ることができます。デメリットは強度に劣るため負荷がかかる高速運転ができない点。当区間は翌年の瀬戸大橋開業を控え、岡山(=新幹線乗換)からこんぴらさんへ向かう観光需要の増加を見込んで電化工事が行われましたが、そこまで高速サービスを提供する必要がないと判断され、安価な現方式で電化工事が行われました。
また、琴平から先の阿波池田を経て高知まで電化を行う構想も存在しました。しかしながら琴平から先の土讃線は山岳路線になり、現代の背高ではない列車を想定して掘られた断面の小さなトンネルが数多く控えており、その改修工事と利用者数の費用対効果を考えた場合に十分な効果を得ることができないことから、琴平から先の電化工事は見送られた経緯があります。これらの話は当時の国鉄が困窮していたエピソードの一つになっています。

 

キロポストと旅情

善通寺駅 キロポスト

「6」と記された楔(くさび)

引き続き2番線プラットホームを探索します。こちらは路線距離を表すもので「キロポスト」と呼ばれるもの。単位はキロメートルで、当駅が所属する土讃線の起点である多度津駅からの距離を示しています。

0…多度津(たどつ) ※起点

6…善通寺(ぜんつうじ)

126.6…高知(こうち)

198.7…窪川(くぼかわ) ※終点

四国内では「高松-松山-宇和島」の予讃線(よさんせん/297.6km)と双璧を成す「多度津-高知-窪川」の土讃線(どさんせん/198.7km)。
駅は小数が発生しない距離に必ずしも位置しているわけではないので、キロポストを見ることができる場所の多くは路線道中。善通寺駅のように、駅でキロポストを見ることができるのは珍しい機会です。

個人的にキロポストを見つけると嬉しくなりますが、その理由は旅情を感じることができる点ではないかなと思っています。これが四国内の路線より遥かに長い山陰本線(さんいんほんせん/京都-幡生)だと起点から終点まで673.8kmもあるので、例えば「500」や「600」と記されたキロポストも存在します。

「この路線は500kmも旅してきたんだなあ」

四国遍路道中には遍路道と鉄道が並走する区間が何箇所もあるので、そのような区間ではぜひ線路に目を向けてみてください。その鉄道が旅してきた距離を示すキロポストが見つかるはずです。

 

駅舎上部の突起

善通寺駅 キロポスト 2番・3番ホーム

2番線にあるキロポストと駅舎の位置関係はこの通り

改めて、駅舎が立つプラットホームは明治の鉄道開業時由来の低床ホームの上に立っていることが分かります。駅に入場する時は気付かなかったのですが、改札の上にある煙突の様に顔を出している部分。

善通寺駅 駅舎 明り取り

かつては煙突として機能していたものかもしれません

駅から退場する際に気にして見てみましたが、こちらは明り取りのようでした。現在はガラスで蓋がされていますが時代によってはこの下にストーブが設置され、本当に煙突のように機能していたかもしれません。

 

善通寺という街の特色を捉えた写真

善通寺駅 改札 街並み写真

改札はまた新たな旅が始まる瞬間

一通り探索を終えて駅から退場します。この時は列車利用のため駅に来たのではなく、駅探索のため入場券を購入して駅構内各所を見て回りました。

改札上に掲げられている写真。総本山善通寺の五重塔と煉瓦造りの自衛隊施設が善通寺市をイメージさせる素敵な構図ですが、こちらは別の場所で撮影されたもの。

善通寺駅 善通寺市街地案内図

駅周辺は官公庁や学校が集中するエリアで、旧陸軍用地から払い下げられたものも多い

写真の並木道は、総本山善通寺の大門から南北に延びる道で撮られたもの。この地図では「中央小学校」西側(左)の道で、この南側(下)に旧陸軍由来の煉瓦建造物があります。善通寺という街の特色を表した、見事な構図であるように思います。

 

【「善通寺駅」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。