別格9番札所文殊院は、四国遍路の元祖「衛門三郎」ゆかりのお寺です。衛門三郎の8人の子どものお墓だと伝わる「八塚」という古墳群が文殊院の境外地として現在も残されています。
空海を追い返したあと8人の子どもが次々に亡くなる
別格9番札所文殊院は、四国遍路の元祖といわれる「衛門三郎」の邸宅があった場所に建てられたと伝わっています。
※衛門三郎に関しては、文殊院の以下紹介記事をご覧ください。
【別格9番札所文殊院】四国遍路の元祖「衛門三郎」の邸宅があったと伝わる遺跡
空海が巡錫中に托鉢のために強欲な庄屋だった衛門三郎を訪ねた際、衛門三郎は空海を追い返したところ、その後衛門三郎の子ども8人が次々と亡くなってしまったという伝説があります。
この8人の子どものお墓だと伝わっているのが、文殊院近くの境外地として残されている「八塚(八ツ塚群集古墳)」です。
遍路道最短距離からは少しそれますが、文殊院からそれほど距離なく訪れることができますので、ぜひお立ち寄りいただきたく、以下ご紹介します。
![八塚への道 道導](https://pilgrim-shikoku.net/cms/wp-content/uploads/2017/01/DSC_0557-1024x576.jpg)
文殊院の少し先に「左 八塚道」と表記された道標があります。
![八塚への道 道導左折](https://pilgrim-shikoku.net/cms/wp-content/uploads/2017/01/DSC_0558-1024x576.jpg)
遍路道から左折して田園住宅地を進むルートが「八塚」への道です。
田んぼの中に突然の古墳が現る
八塚道をしばらく進んでいると、道の左手に大きな木が生えているこんもりした丘が現れます。
![八塚古墳群1](https://pilgrim-shikoku.net/cms/wp-content/uploads/2017/01/DSC_0547-1024x576.jpg)
田園風景の中に違和感のある丘があります。
![八塚古墳群 1号墳](https://pilgrim-shikoku.net/cms/wp-content/uploads/2017/01/DSC_0543-1024x576.jpg)
これが「八塚」のひとつで、八ツ塚群衆古墳の一号墳です。
古墳の上にはお地蔵さまがまつられていて、この古墳群が衛門三郎の5男3女のお墓であるという伝説が残っていることを説明する看板が立っています。
八塚というだけに八つの塚があるはずですが、近くにはそれらしきものは見えません。
道標にしたがって北方向の細道に入っていくと…
![八塚古墳群2](https://pilgrim-shikoku.net/cms/wp-content/uploads/2017/01/DSC_0549-1024x576.jpg)
果物に囲まれた二つめの塚を発見できました。
![八塚古墳群 道導](https://pilgrim-shikoku.net/cms/wp-content/uploads/2017/01/DSC_0555-1024x576.jpg)
さらに少し進んだ先の怪しい女人像の横の電柱に行ったり来たりの珍しい道標がありました。
![八塚古墳群3](https://pilgrim-shikoku.net/cms/wp-content/uploads/2017/01/DSC_0554-1024x576.jpg)
怪しい道標の細道の先の民家の裏に三つめの塚を発見です。
さらに進むと田んぼの中に見たことのない光景がありました。
![八塚古墳群 田んぼに5つ](https://pilgrim-shikoku.net/cms/wp-content/uploads/2017/01/DSC_0552-1024x576.jpg)
田んぼに残り五つの古墳が並んでいました。
田んぼには稲刈りをしたあとが見られ、きちんと稲作が行われている田んぼにいくつもの古墳が並んでいるというたいへん珍しい光景です。
この古墳群は周辺開発で変形はしているものの石室などはそのまま残っている貴重な史跡だそうです。
年代を考えると、当然のことながら古墳が古くからこの地域には存在し、平安時代の空海がこの地を訪れて以降に衛門三郎の伝説が生まれ古墳群と結びつけられたと思われますが、このような地域の伝承が古くからの史跡を守ることにもなっていると思うと、遍路や地域の歴史がますます興味深くなってきます。
四国遍路の元祖ともいわれる「衛門三郎」のゆかりの地である別格9番札所文殊院には興味深い伝説が残り、八塚のように史跡として現代に語り継がれる場所もあります。
お寺だけではなく、地域周辺に目を向けてみると遍路の歴史や奥深さをより一層感じられると思います。
【「八塚(八ツ塚群衆古墳)」 地図】