香川県丸亀市にある「丸亀城」は、日本一の高さを誇る美しい石垣が特徴です。現存12天守のひとつである天守は比較的小さなサイズですが、城下町から大きく見えるように様々な工夫が施されています。
日本一の高さを誇る石垣
香川県丸亀市の中心市街地にある「丸亀城(まるがめじょう)」は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとで乱世を生きた生駒親正(いこまちかまさ)により、慶長2年(1597年)から築城が開始されました。讃岐(さぬき。現在の香川県)17万石を与えられた親正は、高松城(たかまつじょう)を本城とし、西讃岐を押さえる支城として丸亀城を構えたのです。慶長7年(1602年)にはほぼ完成していたとみられます。
元和元年(1615年)に江戸幕府が領国内に1城のみ残してそのほかは廃城とする「一国一城令」を公布すると、讃岐では高松城が残され、丸亀城は廃城となりました。本来ならばここで丸亀城の歴史は終わりますが、寛永18年(1641年)に生駒家のお家騒動で讃岐が分割され、新たに丸亀藩が立藩し、初代丸亀藩主となり5万石で入国した山崎家治(やまざきいえはる)によって、丸亀城は寛永20年(1643年)から現在の姿へ大改修されました。正保2年(1645年)に再築を願い出る際に幕府に提出した「正保城絵図」を見ると、縄張はほぼ現在と一致します。現在城内に残っている石垣は、多くが山崎時代の築造とみられます。
注目すべきは、家治が江戸幕府から銀300貫の資金援助と参勤交代の免除を受けて丸亀城を再築していることです。 例外的な措置が取られたのは、寛永14年(1637年)の島原・天草一揆を受けて、幕府が瀬戸内の島々に潜むキリシタンの蜂起を警戒したためでしょう。島原・天草一揆の終息後、幕府は一揆軍の蜂起を恐れ、キリシタンが多い九州や瀬戸内海沿岸の城を強化し、同時に反逆の拠点にされないように、廃城になって放置されていた城の破却を徹底しています。瀬戸内海に面した丸亀城も、そうした一面を持っていたと考えられます。 瀬戸内海沿岸の城を歩いていると、この時期のものと思われる明瞭な破城の痕跡に遭遇し、幕府の警戒心と政策を感じます。
当時の丸亀城の大手(表口、正面)が瀬戸内海とは反対側の搦手(からめて)つまり裏手にあったのも、こうした事情あってのことでしょう。丸亀城の大手は、寛文10年(1670年)までは搦手側にありました。今でも、南側の搦手口からの登城道のほうが、いかにも正面玄関という貫禄を感じます。豪壮な高石垣が次々に立ちはだかり、城門がないにもかかわらず、迫力があります。ふらりと丸亀城を訪れて城内を散策しても、あまり海に面した城である印象は抱けないかもしれません。しかし、本丸へ上がり周囲を見渡すと、丸亀港がかなり近いことがわかるはずです。
ちなみに大手門は、寛文10年(1670年)頃に建てられた、現存する丸亀城の表門です。大手一の門は、2階に石落を備えた櫓門で、藩士が時を報せる太鼓があったことから太鼓門とも呼ばれます。大手二の門は、城の顔にふさわしく両サイドの石垣がノミで美しく仕上げられています。枡形内の切込接(きりこみはぎ)の石垣もとてもきれいです。
丸亀城は石垣の名城です。城の北側を高架で走るJR予讃線の車窓から見える姿は、まさに石の城塞です。幾重にも高石垣が連なり、その上に天守が鎮座しています。石垣は総高で日本一で、山麓の内堀から山頂の本丸まで4段に重なり、合計で60m以上に及びます。 大手門の前や、その西側の内堀越しに見上げると、その威容が堪能できます。
標高66mほどのさほど高くない山に曲輪をひな壇状に配置しているため、それを囲む石垣や建造物がおのずと密集し、石垣が折り重なって見えます。城の面積に対して石垣が多く、城内を歩いていると常に高石垣に囲まれている感覚です。実際に訪れれば、その迫力とバランス美に圧倒されるはずです。
※城郭建築の設計や用語に関して、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【城郭建築の基礎知識③】築城の計画・選地と城郭の設計(用語解説)
城下町から大きく見える工夫が施された現存天守
3重3階の天守は、全国に現存する12天守のうちのひとつで、家治の建造ではなく、山崎家断絶後の万治元年(1658年)に城主になった京極高和(きょうごくたかかず)が、万治3年(1660年)に建てました。
京極家とは、もともと足利将軍の重臣で名門として知られましたが、室町末期に一旦落ちぶれ、豊臣秀吉の時代に京極高次(きょうごくたかつぐ)が再興しました。関ヶ原の戦いでは東軍に付いて大津城籠城戦を展開し、あまり知られていませんが徳川方勝利のカギとなった人物です。その後、徳川家の大名となり、その子孫は現在も滋賀県などで続いています。天守の鬼瓦や丸瓦には、京極家の家紋「四つ目結紋(よつめゆいもん)」が輝いています。
天守代用の御三階櫓(おさんかいやぐら)として建てられた天守は、現存天守のなかでは小ぶりです。高さは約15mで、30mを超える姫路城天守などと比較するとかなりコンパクトです。
しかし、小さな天守が城下から少しでも大きく見えるよう、さまざまに工夫されているらしいのが愛しいところです。正面にあたる北面は、左隅に出窓のような張り出しを設け、素木の格子をつけてデザイン性を高めているのでしょう。2重目には唐破風(からはふ)、南面には千鳥破風(ちどりはふ)を飾り、華やぎを添えています。
よく見ると、最上重の東西の棟側が極端に短い、不思議な構造をしています。1重目が東西に長い場合は、最上重の入母屋屋根の棟は東西に向けるのが一般的です。 しかし丸亀城天守の棟は南北に向いています。これも、北面に入母屋破風の妻面を向けて大きく見せようとしたためと思われます。
内部に入ると、天井の高さに驚きます。壁は長押の高さまでは漆喰を厚く塗り、防御を固めているようです。 狭間は1階に6つしかありませんが、よく見ると太鼓壁になっているなどの工夫が見られます。天守の出入口がある西面の壁面に装飾がなく、出入口が殺風景なのは、渡櫓が接続していたからです。本丸には天守とは別に4つの隅櫓が建ち、それらが渡櫓と土塀でつながれていました。一段下の二の丸にも四隅に櫓がありました。
豪雨災害による石垣の崩落
残念なことに、平成30年(2018年)7月の西日本豪雨とその後の台風で、石垣の一部が大崩落してしまいました。崩れたのは、三の丸南西隅の坤櫓(ひつじさるやぐら)台と、その下段にある帯曲輪の西面と南西面です。山頂から山麓に向かって曲輪がひな壇状に配置されていて、城の南側は大きく3段になっており、そのうち中段にある三の丸を囲む石垣の隅角部と、帯曲輪を囲む石垣の一部が崩れました。
三の丸と帯曲輪の石垣は以前から危険性が認識され、修復工事に着手する直前でした。 工事を目前に控えていただけに悔やまれます。現在は本格的な復旧工事が進行中で、市民の誇りであり日本の宝でもある丸亀城の石垣が、美しさを取り戻し、後世に残ることを祈るばかりです。
丸亀城は、廃城の可能性があったところから、いろいろな偶然が重なり、現代まで高く美しい石垣と、天守や櫓、門などの建築物が現存する貴重な史跡です。街のシンボルとして長く愛されてきた城郭が、災害からの復旧を果たし、今後も長く保存されていくことを願います。
【「丸亀城跡」 地図】