【能島城】瀬戸内海の覇者「村上海賊」が拠点とした激流を支配する島城

愛媛県今治市の「能島城」は、瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の能島と鯛崎島の島全体を城郭・要塞とした島城です。かつて瀬戸内海を支配した村上海賊が拠点とした城で、当時の海賊の役割などを城郭遺構から読み解きます。

スポンサーリンク

 

瀬戸内海の島々を制圧した「村上海賊」

愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶ「しまなみ海道」の眼下には、エメラルドグリーンの瀬戸内海が広がっています。とても穏やかに見えますが、実はこの海域は芸予諸島によって海峡が狭まるため、潮の干満により激しい潮流が襲う難所です。こうした特殊な地形を知り尽くし、瀬戸内海の覇者として名を馳せたのが「村上海賊」でした。
海賊というと、船を襲って金品を略奪する荒くれ者たちのようなイメージがあります。しかし本来は、航路の安全を守り、交易と流通を支える海の管理者です。村上海賊も、海上の警固を行い、通行料の徴収と引き換えに安全な航海をサポートする水先案内人でした。村上海賊は芸予諸島の島々を流通の基地とした商人の顔も持ち、茶や香を嗜み連歌を詠む、大名顔負けの文化人でもありました。

村上海賊は、因島(いんのしま)村上家、来島(くるしま)村上家、能島(のしま)村上家の3家にわかれます。瀬戸内海の広い海域を支配して、周辺の軍事・政治・経済の動向をも左右しました。戦国時代には機動力を発揮し、水軍として名を馳せました。
天正4年(1576年)の大阪湾での第一次木津川口の戦いが、よく知られています。村上海賊は、あの織田信長を苦しめた毛利方の水軍として大活躍します。船舶を巧みに操り、火矢と呼ばれる火薬を使った戦闘を繰り広げました。

 

激流の「船折瀬戸」を監視・支配した「能島城」

なかでも独立性が高かったのが、「能島城(のしまじょう)」を拠点にした能島村上家でした。毛利・大友・三好・河野氏と友好関係や敵対関係を繰り返しながらも、独自の姿勢を貫いて勢力を拡大し、広範囲にわたり海上交通を掌握しました。最盛期を築いたのが、小説『村上海賊の娘』でも知られる村上武吉(むらかみたけよし)です。武吉の子である元吉(もとよし)と景親(かげちか)の兄弟は、豊臣政権下では水軍として文禄 ・慶長の役にも参陣しています。

能島城は、今治と尾道の間の瀬戸内海のほぼ中央、大島の宮窪の沖合約800m、能島と鯛崎島(たいざきじま)の2つの島を城域とする島城(しまじろ)で、周囲は約1㎞、面積は1万7829㎡です。
能島城を観察するには、まずは少し離れたところから島を一望できる大島のカレイ山展望公園を訪れるのがおすすめです。城の立地がわかり、城を取り巻く潮流の動きも観察できます。
大島と伯方島(はかたじま)の中間に鵜島(うしま)があり、能島は鵜島と大島に挟まれています。鵜島と伯方島との間の狭い海峡「船折瀬戸(ふなおりせと)」は、東の燧灘(ひうちなだ)と西の斎灘(いっきなだ)を結ぶ最短ルートですが、その名の通り船が折れるがごとく流れが激しく、屈曲もしている難所です。
鯛崎島は、この海峡を監視する出丸のような位置付けだったのでしょう。

能島城_能島・鯛崎島_遠景

小さな島全体が城であり要塞であった能島と鯛崎島。

大島には村上海賊の歴史などがわかる「村上海賊ミュージアム」があり、そこから「能島城跡上陸&潮流クルーズ」の船で能島に渡ることができます。激しい潮流に遮られながら、距離的には5分の航路を20分かけて向かいます。このクルーズはかなり楽しくおすすめです。
現在でも「船ではなく潮に乗れ」が地元の漁師さんの決めゼリフだそうです。それほど、能島城を取り巻く潮流は特殊です。
海水は月と太陽の引力に影響され、水平方向に動きます。この海面の動きを潮汐(ちょうせき)、それにより起こる海水の流れや方向を潮流と呼びます。潮流の速さは月の欠け具合に影響されますが、土地や海底の形状も関係し、湾口や瀬戸で速くなりま す。芸予諸島は、島が障害物となるうえに、その一帯の水深が深いのが特徴で、そのため激しい潮流が起こるようです。
能島城を取り巻く潮流の速度は、最大で10ノット(時速18㎞以上)といいます。ときに船が流されてしまうほどの激流が襲い、容易に近づけません。

能島_潮流

能島のまわりは潮流の激しさが一目瞭然です。

能島城特有の遺構は、「海蝕(かいしょく)テラス」と「岩礁(がんしょう)ピット」です。
海蝕テラスとは、島のまわりをぐるっと囲む石の通路スペースです。岩礁ピットは、岩礁にあけられた柱穴で、船をつなぐための柱や杭を差し込むためのものです。

周辺の潮流が激しいことから、その潮流に守られた鉄壁の城というイメージを持つかもしれませんが、それは間違いかもしれません。常に10ノットの潮流が島の周囲を渦巻いているわけではなく、約6時間の周期で満潮と干潮をくり返し、その前後に「潮止まり」という穏やかな時間が訪れるのだそうです。干潮時には船を着け放題になります。

能島城の縄張を見ても、けっして堅牢な城とはいえません。本丸・二の丸・三の丸が階段状に削られ、東と南に張り出した尾根に東南出丸などの出曲輪(でぐるわ)を置くシンプルな構造です。 堀も土塁もなく、防御性は低いほうです。これまでの発掘調査では、柵も確認されていません。
また、出土遺物などから各曲輪の役割も明確になっていて、本丸は武家儀礼を行う場、二の丸は居住空間と推察されています。三の丸からは鍛冶場とみられる遺構も見つかっています。
※城郭建築の縄張や設計に関して、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【城郭建築の基礎知識③】築城の計画・選地と城郭の設計(用語解説)

激流が堀となり土塁となって敵を撃退するという説明をされがちですが、実際には軍事的な城ではなく、支配拠点的な城だったのかもしれません。 能島城には、時代のうねりのなかで人を寄せつけない無敵の水軍へとイメージを変えた村上海賊の真の姿が隠されているのかもしれません。

 

能島城は、信長も恐れた能島村上家が拠点とした海城です。 潮流とともに生きた村上海賊と同じ地を踏み、同じ景色を眺めることができます。現代のお遍路では、瀬戸内海の島に渡ることは基本的にはありませんが、今治市を訪れたら、しまなみ海道の絶景や島特有の文化を体感することは外せません。かつて彼らが行き来した航路を感じながら、美しく楽しい瀬戸内海を満喫してください。

 

【「能島城跡」 地図】

四国遍路巡礼に
おすすめの納経帳

千年帳販売サイトバナー 千年帳販売サイトバナー

この記事を書いた人

建築・不動産・旅のテーマが得意なライター。社寺系ゼネコンに勤務経験があり、四国八十八ヶ所霊場の札所建築物の改修工事に携わったことがあります。仏教に興味があり、2022年には四国のお遍路巡礼もしました。ライターとは別名義で作家として小説も書いています。