【岡豊城】四国を統一した長宗我部元親の居城と織田信長のつながり

高知県南国市の「岡豊城」は、四国を統一した長宗我部元親の居城でした。香長平野の丘陵のひとつである岡豊山にあり眺望が抜群で、近年の発掘調査から当時権勢をふるっていた織田信長とのつながりが見えてきています。

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四国を統一した長宗我部元親の居城「岡豊城」

高知県南国市の「岡豊城(おこうじょう)」は、四国八十八ヵ所霊場の29番札所国分寺から西へおよそ1kmの場所にあり、戦国時代の土佐の有名な武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の居城でした。
天文8年(1539年)に土佐国岡豊城主・長宗我部国親(くにちか)の長男として生また元親は、のちに第21代当主となります。幼い頃は、姫若子(ひめわこ)と呼ばれ、お姫さまのように色白でおとなしい性格だったとされます。当時としてはかなり遅い23歳の初陣で勇猛ぶりを見せつけると、一転して鬼若子(おにわこ)と賞讃されるようになります。土佐国を統一すると「土佐の出来人(できびと)」と呼ばれるほど立派な武将に成長しました。
のちに四国を統一しますが、単なる地方の大名ではなく、その影響は畿内にも及び、明智光秀による本能寺の変では、四国征伐回避説が謀反のきっかけになったといわれるほど日本史上重要な人物です。

 

 

詰と二ノ段からの眺望がポイント

岡豊城は、香長(かちょう)平野に点在する丘陵のひとつである標高97mの岡豊山に築かれています。築城年は定かではありませんが、5世紀後半〜6世紀初頭のようで、この地は土佐国衙(こくが)や土佐国分寺に近く、古代の土佐国の中心地でした。

山頂に主郭部を置き、主郭部には詰(本丸のこと)、 二ノ段、三ノ段、四ノ段などが階段状に並ぶ構造です。東西に長い丘陵に建造されていて、西の伝厩跡曲輪(でんうまあとくるわ)、南の伝家老屋敷曲輪(でんかろうやしきくるわ)までが城域となります。
空堀を越えて2段上がったところが、本丸にあたります。中央部には礎石建物が建っていたことが判明していて、現在は櫓が建てられて展望台になっています。ニノ段からの絶景も良いのですが、 ここからの眺望もすばらしいです。南には香長平野、西には高知市街地が見下ろせ、南斜面下には国分川が流れています。西から南にかけては当時から湿地帯だったようで、自然の要害ぶりが実感できます。
北西側には丘陵畝状竪(うねじょうたて)堀が見られます。放射状ではなく、どちらかというと変則的に設けられています。

土佐国の城跡を巡っていると、長宗我部氏が侵攻した城で畝状竪堀をよく見かけます。こうした城の特徴や類似性を考察するのも、戦国時代の城を巡る楽しみのひとつになります。
※堀の特徴や形状に関して、以下リンクの記事でも紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【城郭建築の基礎知識④】城郭の普請と建造物の施工(用語解説)

岡豊城_詰からの景色

詰からは香長平野の田園風景を一望することができます。

 

 

近年の発掘調査結果から見る織田信長とのつながり

岡豊城跡にある発掘調査の解説板をみると、城の特徴として3つのポイントが上げれています。
● 詰下段や三ノ段から礎石建物が検出されていること。
● 三ノ段の土塁の内側に高さ1mほどの石垣が積まれていること。
● 詰からは天正3年(1575年)に和泉の瓦工(かわらこう)が動員されたことを示す「瓦工泉州(せんしゅう)」「天正三年」と書かれた瓦が見つかっていること。
これらはつまり、元親が織田信長と結びつき、城づくりのノウハウを取り入れた可能性を示唆します。 なぜなら、いずれも 信長や秀吉の城に見られる特徴だからです。三ノ段から四ノ段への折れを伴う虎口(こぐち)も、 そのひとつです。
※城郭建築の区画設計や構成に関しては、以下リンクの記事で紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【城郭建築の基礎知識③】築城の計画・選地と城郭の設計(用語解説)

岡豊城_石垣

近年の発掘調査で形状が明らかになってきた石垣。

 

高知は、四国のなかでも本州に背を向ける位置にあり都とのアクセスが悪いため、政治・経済・文化などの面において地理的に不利です。 元親が畿内・上方との結びつきを強化するためにとった手段が縁戚関係でした。元親の母は美濃斎藤氏の娘といわれ、正室も美濃斎藤氏の縁者です。信長に近い明智光秀と強い結びつきがあったことが、 はじめは有利にはたらいたのでしょう。
豊臣秀吉とは有効な人脈を築けなかったために外交戦で遅れをとり、四国攻めのきっかけを与えてしまったようです。その後は九州攻めで嫡男・信親を失うなど、運に見放されることが少なくなかった元親ですが、岡豊城は四国を統一した元親の栄華と衰退の歴史をしることができる城です。

近年は発掘調査に加え、レーザー測量も行われています。戦国時代の典型的な山城と思われていましたが、信長政権と関わり、新時代の城の顔も見え隠れする、目が離せない城跡です。
敷地内には高知県立歴史民俗資料館があり、長宗我部氏や岡豊城跡に関する資料が展示されていますので、基礎情報を頭に入れてから岡豊城跡に登ると、より当時のイメージが湧きやすいと思います。

 

 

岡豊城は四国を統一した長宗我部元親の居城で、当時は四国内でも非常に重要な役割を担った城です。隣接の高知県立歴史民俗資料館では長宗我部氏の歴史もあわせて詳しく知ることができ、眺望も抜群ですので、高知観光や遍路道中でもぜひ立ち寄ってみてください。

 

【「岡豊城跡」 地図】

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この記事を書いた人

建築・不動産・旅のテーマが得意なライター。社寺系ゼネコンに勤務経験があり、四国八十八ヶ所霊場の札所建築物の改修工事に携わったことがあります。仏教に興味があり、2022年には四国のお遍路巡礼もしました。ライターとは別名義で作家として小説も書いています。