【徳島城】徳島藩随一の城郭はブルーグリーンの石垣に当時の面影をのこす

徳島城は、徳島藩の基礎を築いた蜂須賀家が藩政の中心とした城で、徳島藩随一の城郭でした。現在は天守はのこっていませんが、特徴的な石垣や復元遺構から往時の姿を垣間見ることができ、史跡観光地、市民の憩いの場になっています。

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ブルーグリーンの石垣に全国唯一の現存遺構「舌石」

現在の徳島県徳島市にあった「徳島城(とくしまじょう)」は、高さ約10mの石垣の本丸、その西に二の丸と三の丸を階段状に配し、壮大な建物と多くの槽や倉庫があった、徳島藩随一の城郭でした。現在は天守はのこっていませんが、堀や石垣などから往時の姿を想像することができます。

徳島城_国指定史跡

徳島城跡は国の史跡に指定されています。

 

徳島城で注目すべきところは「石垣」です。
一般的な石垣に使われている石の色はグレー系が多いですが、徳島城の石垣の色はブルーグリーンです。「阿波青石(あわあおいし)」と呼ばれる地元特産の緑色片岩(りょくしょくへんがん)が積まれているからこのような色をしています。
石垣は、いろいろな積み方があり、機能的な特徴やその時代の技術を反映しますが、石の種類でもその土地の特徴が出るというのは、歴史・建築好きにとっては実に奥深いものです。
※石垣の種類や特徴に関して、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【城郭建築の基礎知識④】城郭の普請と建造物の施工(用語解説)

徳島の夏の風物詩である阿波踊りのお囃子に「大谷通れば石ばかり、笹山通れば笹ばかり」というフレーズが出てきま す。ここでいう「大谷」とは、徳島城から3㎞ほど離れた眉山(びざん)北麓の佐古大谷地区のことです。 良質な青石が採れる場所で、徳島城の石垣もここから切り出され運ばれたとみられています。ほど近くにある徳島城主の蜂須賀家の万年山(まんねんやま)墓所でも採石跡が確認されています。

緑色片岩は、緑泥岩などの緑色鉱物を含む結晶片岩の一種です。地域によりブランドが生じ、各地で庭の名石や墓石などに用いられてきました。このうち、吉野川南岸の剣山系一帯で採れる緑色片岩が阿波青石です。ちなみに、徳島駅前の阿波踊りの石像も青緑色をしています。

緑色片岩は鉱物の結晶が一定方向に並ぶため、パイの生地のように薄く何層にも重なっています。そのため、板状に割れやすいのも特徴です。
徳島城の石垣の表面をみると独特な表情をしていて、まるで繊維が引き裂かれたように、潔く縦方向に割れているのがわかります。隅角石の積み方から築城時のものと判別できる本丸東側などの石垣は、切り出した石を加工せずにそのまま積み上げた野面積(のづらづみ)です。阿波青石が持つ独自の色彩と質感が、荒々しい野面積にさらに風情を加え、独自の美を生み出しています。

また、ぜひ忘れずに見てほしいのが、全国唯一の現存遺構 「舌石(したいし)」です。 城西側の石垣に15〜17間おきに「屏風折れ塀」と呼ばれる攻撃場が設置され、張り出した部分から横矢を掛けられるようになっていました。 舌石はその張り出しの柱を支える台石です。現在のJR徳島駅と線路がかつての寺島川で、舌石は川に向けて飛び込み台のように設置されていたことになります。

徳島城の石垣は、長い年月が生み出した生命を感じる繊細な風合いが魅力です。断面のひと筋ひと筋が、樹齢を示す年輪のように歴史の重みを今に伝えています。

徳島城_石垣

ブルーグリーンに輝く内堀の石垣。

 

 

吉野川河口の中州に建てられた徳島藩政の拠点

徳島城を築城したのは、四国を平定した豊臣秀吉から阿波一国を与えられた「蜂須賀家政(はちすかいえまさ)」です。当初は現在の徳島市西部の一宮城に入りましたが、天正14年(1586年)に吉野川河口で海に近い場所に徳島城を築き藩政の中心地としました。
落成祝賀行事として城下の人々が踊ったのが、阿波おどりの始まりとされています。

徳島城は、吉野川河口の中州にある標高61mの城山に築かれました。城山はイノシシの形に似ていたことから猪山(いのやま)とも呼ばれていました。
本丸、東二の丸、 西二の丸、西三の丸が階段状に並ぶ構造で、山麓にあたる現在は徳島城博物館がある場所に、御城と呼ばれる居館がありました。
天守が本丸ではなく東二の丸にある、かなり珍しい構造でした。本丸の天守は江戸時代初期の元和年間に取り壊され、東二の丸に三重の天守が築かれました。城下からの見映えを考慮してのことでしょうか。 武家諸法度公布後であることを考慮すると、天守代用の櫓であった可能性が高そうです。 東二の丸は山の稜線から突き出す、周囲が見渡せる場所です。 城下からもよく見えたことでしょう。

城跡には現在は「鷲の門」が建っています。 徳島城の大手筋に建てられた薬医門で、明治時代に廃城になった際も残されていましたが、戦災で焼失しました。 平成元年(1989年)になって志家の寄付により復元されました。

旧徳島城表御殿庭園は、江戸時代初期に造営された回遊式庭園です。枯山水にかかる青石でできた橋は、かつては全長10mもあったそうです。鉱物がキラリと輝く繊細なビジュアルを見せてくれます。表御殿は上田宗箇(うえだそうこ、尾張の武将茶人)の作庭と伝わる庭園のみ残存していましたが、平成4年(1992年)に表御殿を模した徳島城博物館が開館し、往時の面影を偲ばせています。

徳島城_鷲の門

廃城の際に記念に残された唯一の建造物が鷲の門で、徳島城跡のシンボル的存在です。

 

 

徳島城は徳島藩政の中心地として築かれ、現在も城跡周辺は徳島県随一の市街地・繁華街として中心的な役割を担っています。JR徳島駅からも徒歩圏内でアクセスもよいので、お遍路道中や観光の立ち寄りで、徳島県の歴史散策にぜひお立ち寄りください。

 

【「徳島城跡」 地図】

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この記事を書いた人

建築・不動産・旅のテーマが得意なライター。社寺系ゼネコンに勤務経験があり、四国八十八ヶ所霊場の札所建築物の改修工事に携わったことがあります。仏教に興味があり、2022年には四国のお遍路巡礼もしました。ライターとは別名義で作家として小説も書いています。