四国八十八ヶ所霊場83番札所一宮寺の山門前には、番外霊場で法然ゆかりの仏生山法然寺を案内する標石が残されています。昔のお遍路さんは八十八ヶ所の札所だけではなく、地域の遺跡も巡っていたことを現代に伝えています。
—– こちらの記事に登場する主な地名・単語
標石(しるべいし)
番外霊場(ばんがいれいじょう)
法然寺(ほうねんじ)
佛生山・仏生山(ぶっしょうざん)
松平家(まつだいらけ)
菩提寺(ぼだいじ)
赦免(しゃめん)
—– 記事に登場する主な人物
法然・圓光大師(ほうねん・えんこうだいし / 1133~1212)… 浄土宗の開祖。大師号の圓光は1697年・第113代東山天皇により贈られたもので、500年忌以降50年置きに加諡(かし)され、大師の中では唯一 現在8つの大師号を持つ。
親鸞・見眞大師(しんらん・けんしんだいし / 1173~1263)… 浄土真宗の開祖。大師号の見眞は、1876年明治天皇より追贈されたもの。
松平頼重(まつだいらよりしげ / 1622~1695)… 高松松平家・初代藩主。徳川家康の孫であり、徳川光圀の兄。
仏生山という地域
83番札所一宮寺がある高松市一宮町の近隣に仏生山(高松市仏生山町)という地区があります。かつては高松藩主・松平家の菩提寺・法然寺を中心とする門前街として発達した街であり、現在は高松市郊外のベッドタウンとして発展が進むエリア。
かつての巡礼者・お遍路さんは、一宮寺の門前にある標石の情報を見て、番外霊場でもある法然寺へ訪れたことでしょう。
標石に刻まれている内容
釈尊涅槃像 (しゃくそんねはんぞう)
圓光大師御旧跡 (えんこうだいしごきゅうせき)
見眞大師御直作像 (けんしんだいしごじきさくぞう)
佛生山 (ぶっしょうざん)
是より十八丁 (これより18ちょう)
ここ(一宮寺)から距離18丁のところに、仏生山という場所がありますよ。
そこにはお釈迦様の涅槃像がありますが、
それは見眞大師が作った像であり、(師匠である)圓光大師ゆかりの場所です。
※ 1丁…約109m
讃岐國に伝わる法然の遺跡(ゆいせき)
後鳥羽上皇の怒りを買い、土佐國(実際には讃岐國)へ配流となった法然、越後國へ配流された親鸞の師弟。
両僧はそれぞれの土地で仏教の布教に務めたが、法然が讃岐國の拠点とした場所が生福寺(しょうふくじ、現まんのう町羽間)。結果的に讃岐の滞在は10ヶ月ほどで赦免され、摂津國勝尾寺(現 西國第23番札所)へ移ったが、その短い期間の中で 75歳という高齢にも関わらず、当地にいくつもの足跡を残した。
時は下り江戸時代。
常陸國(現 茨城県)からやってきた松平頼重公は、荒廃していた法然法師ゆかりの寺を "法然寺" と改名し、現在地に移転。伽藍を整備した。
法然寺の移転と造営、そこへ高松城下から続く門前街の整備は、讃岐國を挙げての一大プロジェクト(現在の県事業にあたる)。人々が定着するために製麺業を興し、事業者には原料を藩が定める特別価格で払い下げ、できあがった麺を藩が買い取って藩外へ販売することで、貴重な収入源となった。それまで國内(県内)だけで製造・消費されていたうどんが、國外(県外)へもたらされるようになった この事業は、「讃岐國にうどんあり」 を世に広めた… のかもしれません。
また法然寺に隣接した丘陵に "般若台" と呼ばれる墓所を整備し、法然寺を高松松平家の菩提寺とした。
法然寺に伝わる国内有数規模の涅槃像は、これら一連の法然寺造営整備の一つとして作られたとされる。
見眞大師御直作は…?
見眞大師(親鸞)… 1173~1263
松平頼重… 1622~1695
「御直作」とありますが、両者が活躍した時代が大きく離れているので、このことは辻褄が合いません。
親鸞は師である法然と時期を同じくして越後國へ流されたが、赦免された後は京に戻らず(大雪で戻れなかった説も)、北陸や東国を中心に布教を行ったとされ、西日本での活動記録はあまり見られない。また、法然と再会を果たした記録は残されていない。
讃岐國ゆかりの法然を偲んで、弟子である親鸞が作った涅槃像。
このストーリーは、法然寺を興した松平氏が創造したものか。もしくはこちらの標石を建てた人物の意向によるものか。はたまた、親鸞作の涅槃像起源になるものがあり、それを基に作られたか。
83番札所一宮寺から法然寺へは約3.3km。
実測値はこちらの標石が示す距離ほどは近くはありませんが、見事な伽藍に、目を見張る涅槃像、門前のうどん店。
遍路旅中での立ち寄りいかがでしょうか。
仏生山法然寺を案内する標石に関しては、以下の動画もぜひご覧ください。