【34番札所種間寺門前】汽船の行き来で繁栄した「敦賀」の施主による中務茂兵衛標石

土佐國の安産祈願所として知られている34番札所種間寺。その入口付近に残されている中務茂兵衛標石は、かつてヨーロッパへ向かう汽船が発着していた港町「敦賀」在住の施主によるものです。

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種間寺 門柱横 標石

34番札所種間寺門柱の横に残された中務茂兵衛標石

境内への入口では躍動感のある修行大師さんがお遍路さんを迎えてくれます。

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 肖像

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。 明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。

 

標石の正面に表記されている内容

種間寺 門柱横 標石全体

標石正面全体

高知県に残されている標石全体にいえることですが、白化などにより判別が難しい場合が多い。
高温多湿な高知の気候が石にとっては良くないのか、石の材質の問題なのか。

種間寺 門柱横標石 正面上部

標石正面上部


種間寺三丁
雪渓寺一里余

ここは34番札所種間寺。なのに種間寺まで三丁(=約300m)となっているので、元々この場所に立っていたものではないことが分かります。
茂兵衛さんの時代と今では地権に対する認識が異なるので、元立っていた場所から移転することはよくあります。多いのは道路拡幅工事の際。その移転先ですが、遍路関連の史跡ということでしょうか、八十八ヶ所の札所へ移される例は多い気がします。

「雪渓寺」は33番札所雪蹊寺(せっけいじ)。八十八ヶ所の札所の中に二ヶ寺存在する臨済宗の寺院です。
「蹊」の字が「渓」になっていることがポイント。今でこそパソコンにしろスマートフォンにしろ、漢字の予測変換機能が備わって一度変換すれば次からすぐ出てくるようになりましたが、昔は「蹊」の字を出すのにひと作業必要でした。
茂兵衛さんの時代はこちらの字を当てていたのか。表記について特に公式見解が存在しなかったのか。仮に誤りであっても、今となってはそちらの方が貴重です。

種間寺 門柱横標石 正面下部

標石正面下部

福井県敦賀町●
●●

自分的には最も興味がある肝心な部分。真っ白で判別が非常に難しくなっていますが、中務茂兵衛標石で広く見られる旧國名ではなく県名で記されているのは特記事項です。

敦賀町→現・福井県敦賀市(つるがし)
日本海側の主要都市として特に明治以降目覚ましい発展を遂げた港町。

今でこそ日本からヨーロッパへ向かうのにはほぼ航空機一択ですが、戦前は「欧亜国際連絡列車(おうあこくさいれんらくれっしゃ)」といって日本からヨーロッパへ向かうためには、船とシベリア鉄道(1904年開通)を介していました。敦賀港はその初航路に選ばれた地。金栗四三(かなくりしそう)選手のエピソードで有名な明治45年(1912)、日本がアジアの国として初めて参加した第5回オリンピック競技大会(ストックホルムオリンピック)では、

東京
↓鉄道
敦賀(金ヶ崎港)
↓汽船
ウラジオストク
↓鉄道
サンクトペテルブルグ
↓汽船
ストックホルム

オリンピック選手団(選手2名・役員2名)は18日間列車旅を経てストックホルム市に会場入りしている。

敦賀の位置は本州が最も狭まった場所。日本海側・太平洋側を接続するためには最も距離が短い地点ともいえる。その重要性もあって東海道本線の米原から分岐して敦賀へ向かう北陸本線(の前身)は、初代開通区間が明治22年(1889)には早くも開通しています。当時の交通網、すなわち開通していた鉄道路線を基準とすると、新首都の東京から最も早く行くことができる日本海側の都市は敦賀でした。

戦前は東京駅でロンドンやパリまでの切符を購入することもできたようで、昭和2年の東京-ロンドンの運賃が

一等車…約181ドル
二等車…約135ドル
三等車…約90ドル

これに寝台運賃(シベリア鉄道)が、

一等車…約45ドル
二等車…約10ドル
三等車…約6ドル

当時のレートは変動制なので価値は随時異なりますが、1ドル3円とすると最も安価な三等車に乗車するにしても288円。エリートとされた大卒初任給が70円前後の時代なので、その給料4ヶ月分。もちろんこれに食事や現地滞在費用に帰りの交通費も必要なので、往復すると600円、もうちょっと掛かるのではないでしょうか。
この時代の白米10kgの価格が3円前後、現在4,000円前後と仮定して計算すると、当時の600円を現在の貨幣価値にざっくり照らし合わせると2,400,000円(二百四十万円)。一般の国民がヨーロッパ旅行に行くことができる時代ではないのは費用・所要時間共に明白です。けれど東京からヨーロッパ各都市への切符を購入することができるのは、とても夢がある話です。

 

敦賀の繁栄と国際的にも重要な位置を示すエピソードとして、戦前に販売された外国製の地球儀に日本が描かれる場合は、敦賀が都市名として必ず記入されていたことが挙げられます。
地球サイズで日本が描かれる場合、日本はとても小さく通常大都市が3,4地点代表として記載される程度ですが、敦賀はその1地点に必ず含まれていました。新旧どちらの感覚としても地方都市である敦賀が描かれことは異例。
種間寺門前標石の施主さんは敦賀の人物のようですが、当時の敦賀の繁栄や国際航路の入出港をどのような感覚で見ながら暮らされていたのでしょうか。茂兵衛さんの標石には施主さんの住まいと名前が記載されていますが、その施主さんの住所を眺めて当時の街や情勢を想像することが楽しみの一つです。

 

標石の左面に表記されている内容

種間寺 門柱横標石 左面

キャリア後期に建立された標石にしては劣化が激しい

弐百五十二度目為供養
周防國大島郡椋野村
願主中務茂兵衛義教

252度目の四国遍路は、中務茂兵衛70歳の春に行われた四国遍路のもの。最終が279周なのでキャリア終盤に差し掛かっています。

 

標石の右面に表記されている内容

種間寺 門柱横標石 右面

大正3年3月の建立

大正3年は西暦1914年。
標石建立と同年同月19日には、辰野金吾(たつのきんご)氏設計の東京駅が新築落成。日本を代表する駅であり、洋風の佇まいは誰もが想像することができる名駅舎です。

けれど日本に鉄道が敷設された時期からのものではなく、駅としても同年12月20日の開業。明治以降東京を起点に全国へ鉄道網が広げられていったのは史実の通りですが、東海・近畿方面は新橋、信越・東北方面は上野が起点。日露戦争後、少し離れている両駅を接続するために鉄道が敷設されることが閣議決定されますが、その中間に「中央停車場」として計画されたものが東京駅の起源です。
日本最初の鉄道駅として開業した新橋駅の開業が明治5年9月12日(旧暦使用のため新暦に置き換えると1872年10月14日)なので、日本を代表する駅は鉄道誕生から40年以上後に設置されたことになります。

 

【「34番札所種間寺門前の中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。