【知多四国霊場】開創から現代までの巡礼スタイル変遷の歴史

愛知県知多半島の知多四国霊場が開創されたのは江戸時代後期のことです。その後、時代の変化にあわせて、巡礼スタイルを変化させながら、いろいろな巡礼者を受け入れてきた歴史をご紹介します。

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江戸時代の知多半島における「准四国霊場」

現代の「知多四国霊場」の礎となった「准四国霊場」が開創されたのは、江戸時代の文政7年(1824年)のことです。
※知多半島における弘法大師空海信仰や、知多四国霊場開創に関するエピソードは、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【知多四国霊場】愛知県知多半島にのこる弘法大師空海の伝承

【知多四国霊場】開創を成し遂げた三開祖の強い想いと大きな苦労・努力のエピソード

当時の知多半島は、元々平野が少ない土地で用水も不足していたために、交通手段の中心は海路で、陸路は五街道ほどには整備されていませんでした。また、徳川家直轄の尾張藩に属していたということがあり、政治的・社会的には特別な地域で、江戸や大阪が発展すると共に海運の中継地となり、港周辺が栄えていました。現代の知多四国霊場の札所も港に近い場所に多くあるのはそのためです。

知多半島の沿岸部の地域住民は、海運と漁業、水産加工が生活の中心でした。海に出ることは生活をしていくためには欠かせませんが、常に危険と隣り合わせなので、安全祈願の信仰と強く結びつき、寺院と地域住民の生活が密接になり、熱心な信者が増えていったと考えられています。

知多半島_船団

かつては知多半島沖に多くの船が行き交っていました。

 

鉄道敷設と知多四国霊場の発展

明治時代初期に開業した武豊(たけとよ)港と熱田(現在の名古屋港)とを結ぶ鉄道の武豊線に加え、大正時代後期から昭和時代初期にかけて知多線も整備されたことにより、産業が盛んになり周辺地域に多くの人が出入りするようになりました。当時の知多半島の港町周辺(半田、武豊、亀崎、常滑、大野等)は人口がとても多く、それに伴って寺院もたくさんあり、人の往来が盛んだったそうです。
知多半島に鉄道が通ると、産業や流通業が発展し地域が豊かになり、人口が増加していた名古屋周辺地域にとっての観光・行楽地化が進み、急激に発展したことにより、巡礼も観光の一部になっていきました。
明治26年(1893年)に霊場名を「知多新四国八十八ヶ所霊場」に変更、納経帳もここで初登場しました。

知多四国霊場_弘法大師空海生誕1250年記念納経帳

知多四国霊場の納経帳は、時代ごとにいろいろな形で継承され、2023年は弘法大師空海生誕1250年記念の特別な納経帳も頒布されました。

 

知多四国霊場における巡礼講のバス巡礼

昭和時代に入り、戦後はバスを使った巡礼も登場し、大人数の団体での巡礼者が訪れるようになったことにより、観光業や宿泊業が増え、信者増加による寺院への寄進が施設整備にもつながり、知多四国霊場を発展させる大きな力になりました。

知多四国霊場巡礼者増加には、いくつかの「巡礼講」と呼ばれる団体巡礼者が大きな影響を与えていました。昭和31年(1956年)で確認できるバス巡礼の「講(団体)」の数は700にのぼります。
当時の有力な団体巡礼者が行った寄進や建立した記念碑などが今でも知多四国霊場各札所にみられ、遺物に記された団体名や地域は、地元知多半島や名古屋、三河、岐阜あたりの地域が多く、愛知県内とその近隣に熱心な巡礼者が多かったことがわかります。
他の霊場巡りもある中、知多四国霊場に圧倒的な数の巡拝者が訪れたのは、四国八十八ヶ所霊場との強いつながりをもつ歴史があったことで、篤い信仰心やご利益の期待が生まれていたことや、アクセスの良さや交通手段の発達によるものだと考えられています。

知多四国霊場_講巡拝記念

知多四国霊場の札所には、講で巡拝したことを示す札がたくさん奉納されており、当時の巡拝の様子や歴史を知る上でも貴重な資料です。

 

マイカーブームと新しい巡礼のスタイル

昭和45年(1970年)にマイカーブームが起こり、個人の車で家族や友人同士で観光しながら巡礼を楽しむスタイルが現れてきます。知多半島でも産業道路や高速道路が開通し、三河地域と結ぶ海底トンネルもできました。このことで、三河地域や遠方の関東方面からもマイカーを使っての巡礼がしやすくなり、日本全国から知多四国霊場に来られる人が増加しました。
知多四国霊場の各札所では駐車場の設置に取りかかり、マイカーで巡礼する人も便利にお参りできる環境が整っていきました。現代では各札所には駐車場がしっかりと整備されています。

大智院_駐車場

知多四国霊場71番札所大智院のバス専用スペースもある駐車場です。このような車で巡礼するのに便利な施設が整備されていきました。

そうした時代の変化と共に、昭和58年(1983年)に「知多新四国霊場」から「知多四国霊場」に名前を変更。翌年は弘法大師御入定1150年の記念の年であったことから、南知多町大井聖崎に「聖崎上陸大師像」が知多四国霊場会、地元信者や参拝者などの協力で建立されました。

 

現代における知多四国霊場の気軽でラフな巡礼スタイル

現代の知多四国霊場では、歩き、マイカー、バイク、公共交通機関など巡礼者それぞれが様々な移動を使い、装備品も白衣や菅笠を身にまとった伝統的な巡礼スタイルだけではなく、カジュアルでラフな服装で気軽にお参りする人も増え、巡礼スタイルが変化し多様化しています。
特に個人やグループによる娯楽的な巡礼へと変化は顕著です。その中でも交通機関や旅行会社などの企業活動の役割も大きくなってきていて、名古屋鉄道と徒歩を組み合わせた「歩いて巡拝知多四国」というイベンでは、1日に1000人以上の人が巡礼に訪れている集計も出ているほどです。

現代では、家族や仲間で気軽にお参りができることも、知多四国霊場の大きな魅力のひとつとして認識されるようになっています。インターネットの発展で、SNSなどを通じて、いろいろな情報にアクセスできるようになり、各個人が自分なりの巡礼の目的やスタイルをつくっていける世の中になりました。
知多四国霊場では「納経帳と数珠を持って知多四国を巡ろう」をキャッチフレーズに、気軽でラフな観光を目的とした巡礼スタイルが現代での主流になっています。

知多半島ではいつのころからか知多四国霊場巡礼者を「弘法さん」や「弘法さん参り」と呼ぶ習慣があります。公共交通機関で霊場巡礼をしていると、地元の特に年配の人に「弘法さん」と呼ばれる機会が多いです。知多半島では巡礼者に対して、他の霊場巡礼とは違った特別な想いが根付いていて、時代や巡礼スタイルが変化しても、巡礼者を迎え入れる気持ちは変わらず引き継がれています。

 

知多四国霊場は江戸時代後期にその礎が築かれてから、時代の変化にあわせて、巡礼スタイルも変化しながら、発展を遂げてきました。現代では、巡礼の目的やスタイルがより多様化してしてきましたが、いろいろな巡礼者を受け入れる懐の深さがあり、巡礼環境の整備にも力を入れていますので、知多半島にぜひ足を運んでみてください。

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この記事を書いた人

知多半島のお寺が好きで、知多四国霊場を中心にいろいろな霊場を巡礼し、観光やご当地グルメ(特にラーメン)も楽しんでいます。御朱印集めも趣味で、知多半島のお寺の御朱印はもちろん、全国各地の御朱印をもらいに巡り、アート御朱印などは取り寄せたりもしています。