栗林公園東門に架かっている常磐橋は、かつて城と街をわける高松城外堀に架かっていました。その場所は現在どうなっているのでしょうか。橋を手がかりに明治以降の高松市中心部の変遷を考察してみます。
丸亀町ドーム
ここでの丸亀町は「まるがめまち」と読みます。
生駒家が治める高松藩時代、第3代生駒正俊(いこままさとし/1586-1621)が領内丸亀から高松へ移る際、商人らを連れてこの地に住まわせたことが町名の由来。通りである丸亀町が商品を販売する店舗・商人の街なら、その裏手は作業所・職人の街。
大工町(だいくまち)
紺屋町(こんやまち)
磨屋町(とぎやまち)
鍛冶屋町(かじやまち)
など、高松市街地中心部には職人に由来する地名が現在も残っています。
東…片原町商店街
西…兵庫町商店街
南…丸亀町商店街
現在の高松市街地中心部の航空写真をみると、三方向に延びるアーケード商店街と、その結節点に丸亀町ドームの丸い屋根があることがわかります。
常磐橋のふるさと
かつてこの場所に堀があり橋が架けられていたことが絵図と共に記されていますが、それが現在栗林公園東門にある常磐橋の前身です。
※栗林公園に移された常磐橋に関しては、以下リンクの記事で詳しくご紹介しています。
写真の道路に光が当たっている辺りがかつての外堀があった場所。明治維新以降、高松の都市化等に伴って外堀は縮小傾向にあり、明治33年(1900)には完全に埋め立てられ姿を消しました。
東西(右左)に水を湛える水路が高松城外堀で、それに架かる橋が常磐橋(ときわばし)。江戸時代の外堀は幅が20m以上、明治になり常磐橋が木製から石橋に架け替えられる際でも堀幅10mほどあったというので、なかなかの広さです。
常磐橋のたもと、城下町側に少し広くなった部分があるこの場所は「札の辻」と呼ばれていました。現在、丸亀町ドームがある場所です。
「札」
とは高札(こうさつ)を掲げる場所であり、「辻」は交差点を表します。
この場所にはかつて高札場がありました。高札とは法令や周知事項を民衆に周知する為、周囲より高い位置に目立つように掲げられた掲示板のこと。明治初期に廃止されるまで全国各地で運用されていました。
その性質上、情報が広く民衆に行き渡らなければならなかったので、多くの人がその場所を通る・利用する街の中心でなければいけません。高札場は現存しませんが、香川県の地価を調べてみると最も高額な地点は丸亀町ドームの辺り。今も昔もこの場所が高松の中心といえます。
また、香川県の交通の要になる「讃岐五街道」が分岐していたのが札の辻。
西(兵庫町方面)…丸亀街道 →伊予・土佐
東(片原町方面)…志度街道、長尾街道 →阿波
南(丸亀町方面)…金毘羅街道、仏生山街道 →伊予・土佐・阿波内陸
かつては札の辻。現代は丸亀町ドームから各方面への街道が分岐していることになります。
常磐橋がなくなった後も街道の起点を示す里程標石は、戦前までは丸亀町の入り口、片原町の角の朝日屋洋服店の店頭の土中に埋まって、標石の先端をのぞかせていたそうですが、昭和20年(1945)の高松空襲で所在がわからなくなっています。
外堀がある時代の市街地と県庁の位置
「市松高」
と書かれた「高」と「松」の間にある交差点が、かつての札の辻。現在の丸亀町ドームがある地点。よく目を凝らして眺めてみると「橋」の記号が記されていることがわかりますが、そちらが常磐橋です。
そして「町庫兵」「町原片」と並行するように水路が描かれていますが、こちらが末期の外堀です。この時代には既に海と堀は切り離されていますが、往時の高松城外堀は海と繋がっていて海水が引き込まれていました。すなわち堀でタイやヒラメの舞踊りが見れたというわけですが、その珍しい特徴は縮小された内堀で現在も見ることができます。
現在高松駅がある場所が、かつて外堀に海水を引き込んでいた西側の出入口付近になります。
現代の高松市街地と異なる点は多々ありますが、一つ挙げるとするとこの時代の香川縣廰(かがわけんちょう)は現在地と異なり高松城内に位置しています。
明治4年(1871)11月…内町(現高松市丸の内)に香川県庁開庁(第一次香川県成立)
明治6年(1873)3月…名東県編入により名東県庁高松支庁に変更 ※みょうどうけん、現徳島県
明治8年(1875)11月…名東県から分離。香川県庁開庁(第二次香川県成立)
明治9年(1876)8月…愛媛県編入により愛媛県庁高松支庁に変更
明治21年(1888)12月…愛媛県から分離。浄願寺に香川県庁仮庁舎開庁(第三次香川県成立)
明治27年(1894)7月…内町(現高松市丸の内)に新香川県庁舎落成 ※古地図の位置
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昭和20年(1945)7月…高松空襲により焼失、県立高松女学校を仮庁舎とする ※現香川県立高松高等学校
昭和33年(1958)5月…県庁舎本館落成 ※現在の東館
香川県は県の所管が目まぐるしく変わったため、最初に自前の県庁舎を持つことができたのは明治27年。しかしながらその庁舎は51年後の昭和20年に空襲で焼失。またしばらく県庁の仮住まいが続き、固有建造物としての県庁は昭和33年まで待たなければならなかった、という感じです。
上の古地図で切り取っている市街地の大半は高松空襲で焼失しました。その時焼けずに残っていた建物も老朽化等により取り壊され殆ど存在しません。大きな建物で現存しているものは、丸亀町ドーム(旧札の辻)のすぐ南にある百十四銀行高松支店(旧本店)くらいでしょうか。
※百十四銀行高松支店(旧本店)に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。
常磐橋があった場所から高松城方面を眺める
現在立っている位置…外堀
信号機がある交差点まで…内町(うちまち)
黄色い電車が見えるところまで…丸の内
電車が走っている地点…内堀
松の木が見える場所…高松城
地名が表す通りこれら全て「お城の中」。外堀・常磐橋の内側(北)になります。
現在、丸の内にあるのは高等裁判所や四国電力、西日本放送など。国の出先機関や地元大企業が立地しています。
【「かつて常磐橋があった場所」 地図】