源義経の愛妾「静御前」が得度した87番札所長尾寺から歩いて5分ほど、現在は住宅街になっている場所に遺蹟「鼓渕」があります。義経の形見である鼓を、静御前が俗世への未練を断ち切るために投げ捨てた場所と伝わっています。
静御前遺蹟「鼓渕」
主である義経と生き別れた静御前は母「磯禅師(いそのぜんじ)」の生まれ故郷である讃岐國に身を寄せ、義経と先の源平合戦で亡くなった同胞らを悼む日々を送りました。87番札所長尾寺の周辺の旧長尾町(現在のさぬき市の一部)・三木町エリアの各地に静御前のエピソードが頻繁に登場するのはそのためです(史実としては鎌倉を出た後の二人の足取りは不明とされています)。
そんなある日、二人は長尾寺で得度を受け「磯禅尼(いそのぜんに)」「宥心尼(ゆうしんに)」となります。剃髪を行った静御前がその後ある決意のためにやってきたのがこの記事でご紹介する場所といわれます。
※長尾寺で静御前が得度したことや磯禅師に関するエピソードを、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【87番札所長尾寺】源義経の愛妾「静御前」とその母「磯禅師」の得度と「剃髪塚」
結果的に今生の別れとなった吉野山で、静御前は義経から「初音」と名付けられた鼓を渡されます。それは唐伝来の由緒正しいもので、朝廷に献上された後、平清盛に下賜された平家の家宝でした。屋島の戦いで平家の手を離れ、波間を漂っている初音を見つけた源氏方の武将が掬い上げ、義経の手に渡っていました。
初音は義経の形見であり、別行動になってからも大切にされていましたが、長尾寺での出家得度に際して俗世への未練を断ち切るために、得度後にこの場所を訪れその鼓を渕の中へ投げ捨てたと伝わっており、のちに「鼓渕(つづみがふち)」と呼ばれるようになりました。
「々」「ゝ」「ゞ」
津ゞみヶふち
梶川
静御前遺蹟 鼓渕
静鼓投げたる渕や
湧く清水 鼓川
現代の鼓渕周辺は住宅街になっているので、どこに鼓を捨てるような水辺があるのか?という感じですが、この場所には昭和のはじめ頃までは清水が湧き出る渕があったそうです。
津ゞみヶふち
は「つづみがふち」と読むと思いますが、「ゞ」の字について掘り下げてみます。
発祥は古代中国ですが、現代では日本だけで使用されている踊り字と呼ばれるもので、同じ読みを続ける際に用いられます。
「々」「ゝ」「ゞ」
代々木(代代木)
学問のすゝめ(学問のすすめ)
金子みすゞ(金子みすず)
いすゞ自動車(いすず自動車)
カッコ内の表記をしても間違いではないですが、同じ字が重なるのを目で見るとなんとなく重たさを感じてしまったり、手書きする場合は同じ字を続けて書くのは面倒さを感じてしまいます。(踊り字ではないですが)標石などで同じ在所や名字が続くときに「仝(どう)」と表記されるのと同じ理由です。
つづみ
の場合は「つ」が続くので、そこに濁点をつけて「つゞみ」となるわけですね。
「ゝ」「ゞ」は見かける機会はそこまで多いわけではありませんが、「々」は地名人名など様々な場所で目にしていると思います。
判官贔屓
静鼓投げたる渕や
湧く清水 鼓川
得度という並々ならぬ決意とはいえ、主の形見といえる宝物を手放すのはさらに大きな決意だったのではないでしょうか。
文治四年三月白拍子静が源義経より形見
受けし初音という鼓を捨てし所なり
この時代に歴史の話題で女性が登場する数少ない例ですが、こうして今に語り継がれるあたり静御前の個性は際立っていたということでしょうか。
義経に由来する単語に「判官贔屓」というものがあります。
読みは「ほうがんびいき」で、判官とは検非違使(けびいし、京中の治安維持を務める現在の警察のような職)の三等官のことで、義経がその職に就いていたためそう呼ばれます。判官=義経ともいえるほど義経伝説に欠かせない名称ですが、義経に付く場合に限って読みが「ほうがん」、他に当職を務めた人物を指す場合は「はんがん」と読みます。
判官贔屓とは「弱い立場に置かれている者に対して同情を寄せてしまう」心理現象をそのように例えます。スポーツ観戦などで負けているチームをがんばれと応援したくなる心情がそれです。
源平合戦で活躍しながら、その後実の兄に討たれる運命をたどった義経の存在は、後年成立した平家物語によって語り継がれ、当時の民衆に広く知られることになります。その悲運を悼んだ人々によって生まれたのが北日本に伝わる義経北行伝説であり、大陸に渡ってモンゴル帝国初代皇帝のチンギスハーンになった説まで存在します。
判官贔屓の心情は義経のみならず、運命を共にした静御前に対しても向けられたといえそうです。
【「静御前遺蹟・鼓渕」 地図】