【雲辺寺ヶ原史跡広場】四国八十八ヶ所霊場最高所の66番札所雲辺寺のふもとの軍事遺構

四国八十八ヶ所霊場の最高所の66番札所雲辺寺へ向かう雲辺寺ロープウェイの山麓駅近くにある「雲辺寺ヶ原史跡広場」には軍事遺構が残されています。戦前のこの一帯では、砲術を中心とする軍事演習が行われていた歴史があります。

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雲辺寺ヶ原史跡広場

雲辺寺ロープウェイ山麓駅の近くの「雲辺寺ヶ原史跡広場」に、現代ではあまり見かけないコンクリート建造物が残されている。

 

日清・日露戦争のはざまで

雲辺寺ヶ原史跡広場_案内板

雲辺寺ヶ原史跡広場には、ここが軍事拠点であったことを解説する案内板が設置されている。

時代は明治中期から後期に入ろうという時期、日本は清国(現在の中国)と日清戦争(1894年7月25日-1895年4月17日)を戦い勝利を収めました。
しかしながら戦争の原因は朝鮮半島での覇権を巡っての隣国間の争いであり、清国を破ったとしても次は中国東北部を加えたロシアとの争奪戦が控えている状況で、むしろロシアからすれば三つ巴のうち日本と清が先に戦ってくれたおかげでライバルが一人減り有利になり、日本は今後ロシアとの戦闘を避けて通ることができない状態にありました。

日清戦争で勝つには勝ったけれど問題や改善点は山積しており、それをロシアが待ってくれるわけではないので、早期の改善が課題になります。そこで日清戦争後には更なる軍備の増強が図られることになりますが、その取り組みの一つに軍馬の改良があります。まだ自動車が一般的ではない戦地において、陸上の移動や輸送の重要な手段は「馬」でした。
日清戦争当時の日本軍に使役していた馬は、頭数を揃えるために農耕馬に野生馬となんでもあり。大きさはバラバラだわ、軍馬としての調教が行われていないから馬が言うことを聞かないのはもちろん、去勢されていないなど気性が荒くて軍馬として務めることができない事例が多発しました。海に囲まれた日本は陸戦より伝統的に海戦を得意としていて、その点を軽視していたとも考えられますが、日露戦で想定される舞台の多くは陸戦のため、軍馬の改良は早急に取り掛からないといけない至上命題でした。

そこで政府が主導して開始されたのが「競馬」。有史以来存在した日本在来の競馬(駆け比べ、流鏑馬など)に対して「近代競馬」と呼ばれたりもします。近代競馬はそれまでにも横浜などへ入ってきていたものの、主として居留地に滞在する欧米人が娯楽として楽しむ形式であり、馬匹(ばひつ)の改良という趣旨はほとんど存在しませんでした。
軍馬の改良という喫緊の課題に直面した明治政府によって考え出されたのが、競走によって優秀な種(しゅ)を選定してその仔を増やし、軍馬の改良を促す競馬という方法だったわけです。後年、勝馬投票券を発売することで収益を上げ戦費などを賄うという、宝くじの前身のようなシステムも付け加えられながら、軍馬の改良にスポーツ・娯楽と様々な意味を持ちながら日本の競馬は発展していきました。
昔ほどではなくなったにしろ、日本競馬が「長距離・重負担」をこなす馬が駿馬とされる価値観はそのことに起因し、京都競馬場で行われる天皇賞・春はその伝統を引き継いでいる競走といえます。現在の中央競馬で施行されるレースの平均距離は1,600~1,800mのところ、天皇賞・春はその倍近い距離である3,200mで競われます。優秀な種の選定するという趣旨から、天皇賞を含む八大競走の多くにおいて、生殖能力を持たない去勢された馬は出走資格がありません。

 

模擬日露戦争の地となった雲辺寺ヶ原

雲辺寺ヶ原史跡広場_案内板_陸軍第十一師団軍事演習地

明治33年(1900年)、雲辺寺ヶ原が陸軍第十一師団の軍事演習地に選ばれる。

国を挙げて軍備増強が図られる中で、明治31年(1898年)10月1日に善通寺町(現・香川県善通寺市)に陸軍第十一師団が置かれます。初代師団長は乃木希典(のぎまれすけ/1849-1912)中将です。
※乃木希典に関しては、以下リンクの記事で詳しく紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

【76番札所金倉寺】金倉寺ゆかりの人物と日本近代史の輝かしい1ページ

追って明治33年(1900年)には軍事演習の地として、当地「雲辺寺ヶ原」が選ばれました、この丘陵地帯を近い将来に日露戦が行われるであろう大陸の高地に見立てて、砲術などを中心にした軍事演習が行われました。

後に勃発した日露戦争(1904年2月8日-1905年9月5日)では、結果的に日本は優勢な形で講和に持ち込むことができました。日露両国にとって最も大きな戦闘になった旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、1904年8月19日-1905年1月1日)を指揮したのは、かつて雲辺寺ヶ原で演習の指揮を執っていた乃木希典。ロシア軍の要塞を攻略するにあたり主戦を務めたのが、過去に雲辺寺ヶ原の軍事演習で乃木希典に指導を受けていた教え子たちだったわけです。

 

トーチカと監的所

雲辺寺ヶ原史跡広場_トーチカ

雲辺寺ヶ原史跡広場を通りがかると、まず目に入りこの場所の特徴といえるのが「トーチカ」。

雲辺寺ヶ原では砲術を中心とする軍事演習が行われていましたが、写真のトーチカ自体は砲台とは異なります。トーチカは爆風など相手の攻撃をかわしつつ、僅かに開いた銃眼と呼ばれる窓から攻撃を加える防御陣地としての役割がメインです。

雲辺寺ヶ原史跡広場_案内板_地図

雲辺寺山山麓に軍事演習地が広がっていた。

トーチカがあるこの地点は監的所(かんてきじょ)と呼ばれる施設の一つで、発砲された山砲の着弾地点を観測していました。写真の地図中央左上あたりにある大谷池のほとりに「発射地点」とあり、地図をよく見ると山手にいくつか監的所と記されている地点があることがわかります。
こちらのトーチカを見てしまうと、これが砲台でここから谷間に向けて大砲を撃っていたように想像してしまいますが、発砲される方向としては逆です。山麓にある砲台から丘上にある目標地点に向かって砲撃演習をしていました。この場所を旅順高地に見立てた場合、敵軍は丘の上に築かれた要塞の上に居て、自軍が攻めるのは山麓から、と考えるとわかりやすいかもしれません。

雲辺寺ヶ原史跡広場_監視台

監視台は倒壊を防ぐためか、上部が解体され下部も入れないよう封鎖されている。

トーチカが残されている雲辺寺ヶ原史跡広場は、一帯に存在する監的所の中で最も標高が高い場所にあり、トーチカの他にも監視台が築かれているあたり観測の拠点であったことが窺い知れます。

 

トーチカを近くで観察

雲辺寺ヶ原史跡広場_トーチカ_内部

雲辺寺ヶ原史跡広場のトーチカは中に入ることができる。

雲辺寺ヶ原が山砲の射撃場に選ばれたのは、日清・日露戦争の間にあたる明治33年(1900年)のことで、こちらのトーチカは昭和初期(1930年前後)に建設されたとありますので、前述の対露戦を想定して演習が行われていた時代のものではなさそうです。

雲辺寺ヶ原史跡広場_トーチカ_銃眼

トーチカの中に入って銃眼から外を眺めてみる。

在りし日は発射された山砲の玉がどこに着弾したか、兵員たちは血眼になって観測していたことでしょう。

雲辺寺ヶ原史跡広場_トーチカ_銃眼_開腹部

トーチカの外に出て銃眼を観察すると、開腹部は内側に向かって反っていて内部はより狭くなっている。

一般的に開腹部を広く取ると視認性は良いけれど内部が被弾したり爆風を受けやすくなります。逆だと視認性は良くないけれど防御性能は高まります。なのでトーチカを作るとしたら後者のことが優先されるのでしょうが、このように開腹部の広さを変えることで、防御性能を保ちつつ視認性を少しでも確保する工夫がされています。これは城郭などで見られる狭間(さま)と同様の構造です。

 

穏やかな瀬戸内海を望む丘

雲辺寺ヶ原史跡広場_農地_瀬戸内海

今は多くが農地となっている雲辺寺ヶ原だが、どこかに大砲の玉が埋もれているのかもしれない。

第二次世界大戦後、雲辺寺ヶ原は演習場としての役目を終え民間に払い下げられました。現在は斜面を利用した柑橘栽培などが行われています。穏やかな瀬戸内海を望むこの場所に物騒な軍事演習が行われていたことは、今のこの平和な風景からは想像することができません。

自家用車やバスで四国八十八ヶ所霊場を回っている多くのお遍路さんが、66番札所雲辺寺の参拝には雲辺寺ロープウェイを利用されることと思います。そのロープウェイ乗り場の少し下にあるのがこちらの雲辺寺ヶ原史跡広場です。現地には案内板もありますので、時間に余裕がある際は立ち寄って当地の歴史に触れてみてください。
※雲辺寺ロープウェイに関しては、以下リンクの記事で詳しく紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。

【66番札所雲辺寺への遍路道】雲辺寺ロープウェイから見ることができる景色

 

【「雲辺寺ヶ原史跡広場」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。