徳島県鳴門市の「撫養城」は、近畿方面からの四国の玄関口である鳴門海峡を望み、かつては侵入者を監視する重要拠点でした。撫養城を支城とし、阿波国徳島藩の基礎を築いた蜂須賀氏の歴史やエピソードを交えてご紹介します。
鳴門海峡の監視拠点であった「撫養城」
徳島県鳴門市の「撫養城(むやじょう)」は、鳴門海峡を望む標高62mの妙見山にかつてあった平山城で、別名で岡崎城(おかざきじょう)、林崎城(はやさきじょう)とも呼ばれていました。
戦国時代の天正年間以前は、小笠原将監(おがさわらしょうげん)が居城し、後に三好氏の家臣の四宮氏に譲ったと伝わります。天正10年(1582年)に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が阿波国(現在の徳島県)を制圧すると、真下飛騨守を守将としました。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国平定後、蜂須賀氏が阿波国の新領主となり、徳島城の支城を9城置いたうちの1城となり、鳴門海峡を眼下に望む撫養城に、益田正忠(ますだまさただ)に兵300を備えて阿波国東北の押さえとしていました。
その後、豊臣秀吉の死、関ヶ原の合戦により江戸幕府の支配となり、一国一城令によって寛永15年(1638年)に廃城となりました。
現在は曲輪、石垣が遺構として残っており、鳴門市の史跡に指定されています(指定名称は「岡崎城跡」)。城跡のある妙見山は妙見山公園として整備されていて、模擬天守が建っていますが、 天守はなかったという説もあります。
二の丸跡にある妙見神社裏に石垣が残っていますが、これは築城当初のものではなく、天保元年(1830年)に神社が建てられた際に造り替えられたものとみられています。
昭和40年(1965年)に望楼型3層3階として建てられた模擬天守は、「トリーデなると」という地域の博物館になっています。もともと天守といえる建物がなかったとしても、少なくとも複数の砦はあり、防衛拠点であったことは間違いありません。天守などの建物の資料が一切ないため、復元または再建天守を建てることは不可能なので、現在の天守は完全に想像で建てられた模擬天守ですが、それでも何もないよりは城としてのイメージが湧きます。
内部の3階からは西に鳴門市街、北に小鳴門海峡、東に太平洋が一望できます。現在は気持ちの良い景色としてのんびり眺めていられますが、かつてはいつ攻めてくるかわからない敵を監視する緊張感のある風景だったはずで、現代人には想像が難しいです。
撫養城には室町幕府の将軍家との珍しいゆかりが伝わっており、10代将軍・足利義植(あしかがよしたね)、さらに14代将軍・足利義栄(あしかがよしひで)の両名が、この撫養城において病死または自刃しているそうです。足利尊氏(あしかがたかうじ)にはじまる室町幕府の15代にわたる将軍のほとんどは京都で静かに没することがありませんでしたが、阿波国のこの地で二人も亡くなっているというのは何の因縁なのでしょうか。
阿波国徳島藩の基礎を築いた蜂須賀氏
撫養城を含む阿波9城の城主となり、幕末まで徳島藩の領主であった蜂須賀(はちすか)氏は、もともと美濃国(現在の岐阜県)に隣接する尾張国海東郡蜂須賀郷(現在の愛知県あま市蜂須賀)を領した国人で、川並衆であったといいます。現在も愛知県の稲沢市南部からあま市北部にかけて地名として残っています。
豊臣秀吉に関係する歴史ドラマに必ず登場する蜂須賀小六(ころく)は、はじめは秀吉の顔見知りで、浪人だったとも盗賊だったともいわれていますが、はっきりしていません。秀吉がまだ織田家の足軽だったころ、美濃攻略のため墨俣一夜城を建てる際に労力を集めたのが蜂須賀小六でした。蜂須賀氏は織田氏の配下に属して、蜂須賀小六は織田氏の武将・羽柴秀吉の与力として活躍しました。
その嫡子である蜂須賀家政(いえまさ)は、秀吉の四国平定とともに天正13年(1585年)に阿波国に入封し、阿波国一国17万3000石(18万6000石とも)の大名となり、のちに徳島藩の礎を築きます。
徳島県の有名な盆踊り「阿波踊り」の歌詞に「阿波の殿様蜂須賀公が、今に残せし阿波踊り」というフレーズがあります。現代に続く阿波踊りは、蜂須賀家政がはじめたという無礼講(ぶれいこう)の宴会が元になっているといわれています。ただし、戦国時代の「三好記」に阿波に「フリュウ(風流)」という踊り集団があることなどが出ており、それ以前からあったという説もあります。
徳島という地名を命名したのも家政だったようです。 城が吉野川河口の助任(すけとう)川と寺島(てらしま)川に挟まれた三角州(島)に位置していたことと、縁起の良い”徳”を組み合わせたとか。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて、家政の子の蜂須賀至鎮(よししげ)が東軍に与したことにより所領の阿波国を安堵され、さらに大坂の陣後に淡路国一国を加増され、2国都合25万7000石を拝することになります。蜂須賀家政は地域の産業として藍染を推進し、そのおかげで実質の石高は45万にもなったといわれるほどです。
蜂須賀氏は明治時代まで14代にわたり阿波国徳島藩をおさめました。
蜂須賀氏の子孫は、江戸時代に皇室へ入り(光格天皇典司)、皇子を出生したため(のちの仁孝天皇)、現在の天皇陛下の直接の祖先となっています。
蜂須賀氏は明治維新によって侯爵の位を与えられましたが、一族の出自については度々からかわれてきました。「太閤記」に蜂須賀の祖先は尾張の野伏せり・野盗(盗賊・泥棒)だったと書かれているからです。泥棒が大名になるというのは、話し好きの江戸時代の人たちにとっては百姓が天下人になるのと同じくらい面白い話題なので、いつしか通説になりました。
明治時代に蜂須賀茂韶(もとあき)侯爵が明治天皇に拝謁するため宮中に参内して応接室で天皇を待っていた際、卓上に置いてあった高級な煙草を一本失敬しました。その後入室した明治天皇は煙草が1本なくなっていることに気づき、「蜂須賀よ、先祖は争えぬのう」と言われたというエピソードが残っています。
撫養城は、観光名所にもなっている鳴門海峡を見渡すことができる、かつての監視拠点でした。現在の模擬天守からののどかで気持ちの良い景色からは城郭としての役割は想像が難しいですが、足利将軍家や蜂須賀氏とゆかりが深い史跡ですので、その歴史とあわせて眺めを楽しんでみてください。
【「撫養城跡」 地図】