【81番札所白峯寺と79番札所天皇寺】2寺を結ぶ崇徳上皇の御霊鎮魂のレイライン[讃岐配流と非業の死編]

崇徳上皇といえば、日本史上もっとも恐れられた怨霊に挙げられますが、讃岐國では悲運の天皇として手厚く祀り、180度異なる穏やかな御魂として受け止められてきました。 レイライン的な観点から、その理由を紐解きます。

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複雑な出自

崇徳上皇の御陵は京の都から遠く離れた四国の讃岐國(81番札所白峯寺隣接)に現在もあります。 まずは、なぜ崇徳上皇が日本史上でもっとも恐れられた怨霊とされたのか、なぜ四国讃岐國に弔われたのか、歴史をなぞりつつ説明したいと思います。

年号が明治に改元される直前の慶応4年8月25日、天皇の勅使が讃岐に下向します。 そして、白峰にある崇徳上皇の御陵に赴くと、その御霊に還御を乞い、遺影を神輿に奉じて京都に戻り、京都上京区飛鳥井町に創建された白峯神宮の祭神として祀りなおしました。

保元の乱に敗れて都を追われ、讃岐に配流されてから、じつに700年以上の時が経っていました。

崇徳上皇の御霊が還御された慶応4年は、戊辰戦争真っ只中であり、朝廷軍は東上して奥羽諸藩との決戦を行う直前でした。 このタイミングでの還御は、崇徳上皇の怨霊が奥羽諸藩に味方して官軍を悩まさないようにという必死の願いが込められていました。 裏を返せば、朝廷は700年の間、崇徳上皇の怨霊に恐れおののいてきたということです。

崇徳上皇は系図では鳥羽天皇の長男にあたります。 しかし、鳥羽天皇の祖父である白河法皇が実父であり、鳥羽天皇の妃に産ませた子という複雑な出自でした。 そのため鳥羽天皇に疎んじられ、5歳で皇位についたものの、22歳の時に鳥羽上皇の命によって末弟だった近衛天皇に譲位させられます。 その後、崇徳上皇は日陰の身に置かれました。

崇徳上皇38歳の時、近衛天皇が崩御し、自分の息子に皇位が巡ってくると喜んだのもつかの間、またも鳥羽上皇の横やりで後白河天皇が即位することになります。

 

保元の乱と讃岐配流

保元元年5月、鳥羽上皇が崩御すると、長年日陰の身に置かれた崇徳上皇が復権を狙って挙兵するという噂が流れます。 実際、その噂のために追い詰められた崇徳上皇は、藤原頼長や源為義とその息子の為朝などの側近に兵を整えることを指示して、自邸に篭ります。 ところが、後白河天皇方のほうが有利と考えた多くの武将たちは、崇徳上皇に加担するのを避け、天皇方につきます。 その中には父親が崇徳上皇と関係が深かった平清盛もいました。 崇徳上皇側は挙兵の準備がまったくできないうち、7月11日に後白河天皇方は機先を制して崇徳上皇方を攻め、一瞬にして制圧してしまいます。これが保元の乱です。

崇徳上皇方の藤原頼長と藤原為義は死亡、源為朝は伊豆大島へ配流となります。 崇徳上皇は自ら投降したにも関わらず、讃岐へ配流とされます。 天皇もしくは上皇の場合、謀反をくわだてて破れたとしても、せいぜい僧籍に入ることで許されることが通例で、遠方に配流されるということは異例中の異例でした。 崇徳上皇もこの重い刑罰に驚きます。

崇徳上皇は仁和寺に謹慎させられていましたが、早くも23日には護送され、8月3日に讃岐松山浦に到着します。 朝廷側の有無を言わさぬ素早い処断も異例でした。 ずっと煮え湯を飲まされてきたような人生を歩んできた崇徳上皇にとっては、絶望的な末路でした。

 

讃岐での流刑生活と非業の死

その後、上陸地に近い綾高遠の堂で3年を過ごし、さらに府中鼓ケ岡の木丸御所で6年間を過ごすことになります。 この間に、地元の娘と子を成し、また地元の豪族である綾氏をはじめ修験者などとも交流を持ちました。

9年間の流刑生活の間、崇徳上皇は都へ戻ることを何度も切望し、上奏します。 しかし、朝廷は頑なに受け入れません。 ついに自らが都へ帰還することを諦めた崇徳上皇は、平治元年、せめて自ら写した写本を保元の乱の戦死者の供養と反省の証に寺に納めてほしいと、五部大乗経を朝廷に送ります。 しかし、朝廷はこれをにべもなく突き返してきました。 崇徳上皇ついに悲憤のあまり、自らの舌を噛み切り、その滴る血をもって、写本に怒りの言葉を書きなぐります。 有名な、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん。この経を魔道に回向す」の言葉です。 この言葉を書き記した後、崇徳上皇は鬼のような形相の天狗に変身したと伝えられています。

長寛2年(1164)8月26日、上皇は9年間の讃岐での配流生活の後、46歳で亡くなりました。 都へ使者を送り、葬送の勅命を待つまでの20日あまりの間、暑い夏のことなので霊泉として名高い野澤井(八十八の霊泉)に浸されました。

野澤井(八十場井)

崇徳上皇の遺体が20日あまり漬けられ、亡くなられたときと変わらなかったと伝えられる野澤井。倭健命の息子である讃留霊王が悪魚退治の際に負った傷をこの泉の水で癒やしたと伝えられる霊泉で、野澤井と言うのはこの場所の古い呼び名。一般には八十場井(やそばい)と呼ばれている。

 

【「野澤井(八十場井)」 地図】

 

非業の死をとげた崇徳上皇が怨霊となったと伝わる歴史に関しては、以下リンクの記事に続きます。

【81番札所白峯寺と79番札所天皇寺】2寺を結ぶ崇徳上皇の御霊鎮魂のレイライン-怨霊伝説と讃岐の鎮魂編

 

四国遍路情報サイト「四国遍路」を運営する株式会社四国遍路では、聖地観光研究所の内田一成氏と共同で、崇徳上皇に関連するレイラインを現地フィールドワークを通してご紹介するツアープランをご提供しています。 ツアーの様子を撮影した以下動画をぜひご覧ください。 ツアーの詳細情報は以下リンクのページに掲載しています。

五色台つくり旅 ~崇徳上皇レイライン編~

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この記事を書いた人

聖地と呼ばれる場所に秘められた意味と意図を探求する聖地研究家。アウトドア、モータースポーツのライターでもあり、ディープなフィールドワークとデジタル機器を活用した調査を真骨頂とする。自治体の観光資源として聖地を活用する 「聖地観光研究所--レイラインプロジェクト(http://www.ley-line.net/)」を主催する。