【古目大師】宍喰住民による涙の別れと徳島県最南所に位置する霊場

徳島県最南の街・宍喰。ひと山越えると高知県という県境の街でもありますが、古の四国遍路を回想しながら県境を越える古道の峠を目指したいと思います。県境ならではの「古目大師」「古目番所跡」などの史跡があります。

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宍喰駅 宍喰市街地眺望

高知県と県境で接する徳島県最南の街・宍喰(現海陽町)

 

かつて泪橋と呼ばれた街外れに架かる橋

宍喰 泪橋

鳥のカモメを模したコンクリート橋

阿佐海岸鉄道の宍喰駅から出発、歩いて数分のところ。街外れの橋が架かる場所に到着です。
※阿佐海岸鉄道の歴史や最新の動向に関して、以下リンクの記事でご紹介しています。

【阿佐海岸鉄道「DMV(Dual Mode Vehicle)」】四国最小の鉄道事業者に間もなく登場する世界初の乗物

宍喰 かもめ橋

かもめ橋(徳島県海陽町宍喰浦)

橋の名前通り中央にカモメの頭。その左右に広がるアーチがカモメの翼を表現しています。総コンクリート造り。

宍喰かもめ橋 県都からの距離

徳島九七、二粁(徳島97.2km)

徳島県の橋にしばしば見ることができる、橋の銘板に県都までの距離が示されたもの。県の南の端から徳島市まで、これくらいの距離があることの証左となっています。この場所から約1kmで、県境の水床トンネル(みとことんねる)入口です。

橋が架けられたのは昭和28年(1953)11月。この年は豪雨災害が多かった年で、同年6月に九州で発生した西日本水害、7月の紀州大水害、8月の南山城水害など。「集中豪雨」の単語はこの年が初出とされています。

宍喰かもめ橋 渡ったところ

かもめ橋は別名「泪橋(なみだばし)」とも呼ばれる

かもめ橋を渡り宍喰の街から離れます。今でこそこのような陽光の下、徳島県に別れを告げる形になりますが、以前、特に藩政期(江戸時代)はそのようなことは無かったようです。
お遍路さんがこの場所を後にするということは、阿波を離れ土佐に入ることを意味する。この時代の土佐國は山内家(やまうちけ)による非常に厳しい鎖国政策が取られ、領内においてはお遍路さんでさえ厳しい制限が設けられていました。

巡礼道を外れてはいけない
参拝は16ヶ寺の本札所に限る
宿泊は遍路宿・善根宿のみ
同じ場所に連泊する場合は庄屋の許可が必要
など

このことは「土佐は鬼國、病気になっても医者がない」と噂されるほどになり、土佐國へ向かうこと自体が忌避されるようになりました。

阿波(徳島)…藍など
讃岐(香川)…砂糖・塩・綿(いわゆる讃岐三白)、製麺、金毘羅山の観光収入など
伊予(愛媛)…塩、木蝋、道後温泉の観光収入など

他三国が一定の収入案件があったことに対して、土佐(高知)は山林の面積が領域の多くを占め、他國への行き来は全て山越え。産物が有っても他国へ売りに行くことは困難で、海を伝っていこうにも前方は荒々しい太平洋。遭難事故の危険性がありました。

【関連記事】【高知県香南市の遍路道】「無人島長平」と呼ばれた人物のお話

自然災害も多く、常に困窮していた土佐藩にとって、他國人との接触することは藩政にとっては不都合。他國が豊かであることを知られてしまっては領民は離散します。藩政を支えるための人口が少ないところへ、更に人口減少を招きます。そのような理由もあって土佐は藩独自の厳しい鎖国政策と、藩にとっては不都合な情報をもたらす他國人に厳しい注文をつけ藩政を維持していた事情がありました。これはお遍路さんといえど例外ではなかったようです。逆にいえば、お遍路さんだから辛うじて入國が認められていたといえます。

それゆえ宍喰の人々は、川に架かる橋を渡って土佐國へ行こうとする巡礼者を見かけるとそれを引き留めて、土佐國の厳しい事情をお遍路さんに説いたといいます。政策だけではなく室戸岬へ向かう難所「淀ヶ磯」「ゴロゴロ石」の話など、その会話の中では命を落とす危険がある厳しい自然条件も挙げられたものと思います。
それを聞いたお遍路さんは土佐國参りを諦め、讃岐もしくは伊予へ行き巡礼を再開することもあったようです。この風潮は「三國参り」と呼ばれていました。

しかしながら、中には決意が固く、それを聞いても土佐へ向かう巡礼者はいます。そんな時、宍喰の住民らは橋が架かるこの場所へ同行し、土佐國へ向かうお遍路さんを涙ながら見送った。宍喰川に架かるこの橋は、涙涙の別れの橋「泪橋」となりました。

かもめが翼を広げるデザインは、過去の悲しい話を払拭する意味合いもあってデザインされたものと思われます。

【「泪橋(かもめ橋)」 地図】

 

徳島県最南の霊場

古目大師 遠景

橋を渡ってもここはまだ徳島県

泪橋(かもめ橋)を渡り100mほど進むと右手に大師堂があります。

古目大師

古目大師(こめだいし、徳島県海陽町宍喰浦)

古目大師 阿波発心道場最南所

「発心の道場徳島最南所」とある

この先どのルートを進んでも寺院や大師堂はないので、ここが徳島県最後かつ最も南に位置する霊場(番外霊場)となります。

古目大師 桜 紫陽花

春は桜、初夏は紫陽花が最南大師を彩ります

ここが県境ではないものの、意味としては高知/愛媛県境の松尾峠にある「松尾大師」と同じ意味。徳島県を無事に回ることができた御礼の意味を込めて、こちらで手を合わされると良いと思います。

【関連記事】【松尾峠】土佐から伊予へ。国境の峠と境界石ほか

古目大師 右行き止まり道

古目大師を参拝して再出発

目前に迫った徳島/高知の県境を目指します。大師堂を背にして振り返ると右斜めへ向かって進むそれらしい道がありますが、ここは行き止まり。黄色い点字ブロックがある歩道を進みましょう。

【「古目大師」 地図】

 

宍喰浦の化石漣痕

古目大師先 化石漣痕

真っ直ぐ進むと地球のメカニズムを目にすることができる

100mほどで三叉路。奥に見えている青い橋桁が国道55号。国道へ合流するには真っ直ぐ進んで橋桁手前を右折しても良いし、ここを右に曲がってもやがて国道に合流することができます。真っ直ぐ進んでの国道合流は手前で坂を上がらないといけないので、徒歩での国道合流であればここは右折した方が良いと思います。

今回越える予定の古目峠へ向かう場合は、ここを右折します。

ちょっと寄り道、直進して橋桁をくぐった先で見ることができる「化石漣痕(かせきれんこん)」
見えている山自体が数千万年前は海の底で、プレートの活動によって陸上に現れたもの。かつてその場所が海の底だった証を、陸上で見ることができます。例えば室戸岬は1年で平均5mmずつ隆起しているといわれますが、あるタイミングで大きな力が放出され地面が一気に隆起することがあります。その時には強い揺れが伴いますが、これが近い将来発生するといわれている南海トラフを震源とする南海地震のメカニズム。



宝永南海地震…1707年10月28日(旧暦宝永4年10月4日)
安政南海地震…1854年12月24日(嘉永7年11月5日)
昭和南海地震…1946年(昭和21年)12月21日 

戦後間もない頃に発生した南海地震から今年で74年。すなわち70年余りのパワーが南海トラフには充填されています。宍喰浦はもちろん、古目大師も津波によって何度か流された記録が残されています。もしも遍路道中に大地震が発生しても、自身の命を守る迅速な行動を心掛けるようにしましょう。

【「宍喰浦の化石漣痕」 地図】

 

古目番所跡

古目大師先 右分岐点

右折するとその先で更にY字の三叉路

ここを左に行けばすぐに国道55号に合流。その先にコンクリート会社の施設が見えますが、水床トンネルの徳島県側の入口はその地点にあります。

古目峠 道標

分岐点のカーブミラーに記されている、二通りのルート

上部の矢印に従って進めば水床トンネルを経由して、トンネル出口まで約1km。距離や時間を考えると、このルートで更に甲浦集落へ入らずひたすら国道55号を進んだ方が勾配が緩く距離が短い。所要時間は峠→集落経由と比べて半分くらい。

下部の矢印に従って進めば、見えている山なみを古目峠経由で越える「旧土佐浜街道」
自然の中や古道・遍路道を歩きたい方にはお勧めの道です。

どちらのルートを選んでも、それぞれにメリットがあります。

古目番所跡

カーブミラーの地点にかつて「古目番所(こめばんしょ)」が置かれていた

大坂口番所などと同じく、阿波から他國へ通じる地点に置かれた重要な番所の一つ。
「古目」の由来は、「古くから目を付けていた(付けられていた)」ことに因む説があります。

江戸時代中期に記された「四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)/真念」によると、

「…川わたりて阿波さかひ目ばん所、古目という所有り、これにて往来の手形の切手あらたむ。行過さか有、阿土国境の峠あり。…」
とあります。この地点が國境だったわけではありませんが、古目番所を過ぎると手続きの上では土佐國。国元で発行された「往来手形」の他にここで渡されるのが「添手形」。往来手形がパスポートだとすると、添手形はビザのようなもの。それを所持することによって、制限付きながら土佐國内を巡礼することが許可されました。ここで発行された添手形は予土國境の松尾坂番所(まつおざかばんしょ、高知県宿毛市)で回収される際に、期限内に土佐國を回ってきたかどうかの審査基準になっていたようです。

往来手形があるからといって入國が必ず許可されるかといえばそうではなく、身なりや所持金のチェックの他、行動計画についても事細かに尋問され、入國を拒否されるケースもあったようです。
また、冬は温暖な土佐國へ物乞い目的で遍路を装って入國しようと試みる者もいたようで、冬期間は番所自体が閉鎖されることもあったようです。

これらの話を聞くと土佐藩の政策が否定的に映るところですが、数少ない食糧を他國民へ与える余裕がないため(冬期は猶更)一種の保護政策が敷かれていた事情。領民は接客業を営むよりも食糧増産を行わなければ暮らしていくことができなかった、厳しい藩政事情があるように思います。

このあとの古目峠越えの古道遍路道の様子のご紹介は、以下リンクの記事に続きます。

【阿佐國境「古目峠」】國境の古道で峠を越えて土佐へ入る

 

【「古目番所跡」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。