【霊芝寺】讃岐国高松藩初代藩主・松平頼重と結界

讃岐国高松藩の二つの菩提寺のうちのひとつ「霊芝寺」は、高松藩二代藩主と九代藩主が儒教形式で葬られている寺院です。高松城とレイラインでつながる位置関係から、一族の繁栄を願ったおもいがみえてきます。

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寺社を庇護した松平頼重

寛永19年(1642)、常陸国下館藩から水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男・松平頼重が高松に入封し、高松藩が成立します。

本来であれば、長男なので水戸徳川家を継ぐ立場にありましたが、頼房は水戸徳川家の家督を頼重の弟である光圀に指名しました。これは、頼房が兄である尾張藩主・義直・紀州藩主・頼宣に先だって男子をもうけたことを憚ったためと伝えられています。

後に朱子学を藩学に取り入れ、『大日本史』編纂を命じて水戸学の礎を築いた光圀は、兄に変わって水戸徳川家を継いだことを儒教精神に反すると心苦しく思い、自身の子である頼常を高松藩主とし、頼重の子である綱條を水戸藩主に迎えて、長幼の序を戻します。後で触れるように高松藩には二つの菩提寺がありますが、それは水戸藩との絆に由来するものです。

頼重は入封当初より、高松城下に水道を引き、灌漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備し、塩田開発を奨励したことで知られます。また、高松藩内の寺社を整備したり、寄進なども行い、伝統工芸の奨励と合わせて、文化育成の主軸としました。それは、長く引き継がれ、現代の高松周辺でも寺社が昔の佇まいをよく残しています。

 

もう一つの菩提寺・霊芝寺

高松藩主の菩提寺といえば、高松市南部にある「仏生山法然寺」が有名ですが、もうひとつがさぬき市にある「霊芝寺(れいしじ)」です。
※仏生山法然寺に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

讃岐国高松藩初代藩主・松平頼重と結界【仏生山法然寺(香川県高松市)】

霊芝寺の寺伝によれば、平安時代初期の弘仁年間(810-824)に空海が、師である岡田牛養を祈念し建立したとされます。戦国時代に消失し、その後、頼重が寺院の復興を命じ、山門を復興。この山門は雨滝城の裏門を移築したものと伝えられています。その後、二代藩主頼常が延宝4年(1676)に寺号を東林山霊芝寺と改め、本堂を建立しました。

霊芝寺には、頼常と九代藩主頼恕(よりひろ)の墓所があります。先に書いたように、頼常は水戸藩主徳川光圀の子で頼重の養子となり、頼恕も同様に水戸家出身のため、儒教(正確には水戸学)を家宗とした水戸家に習い、儒教方式でここに葬られています。

霊芝寺とかつての高松城である玉藻公園は、14km離れていて、間に山もいくつもあって目視はできませんが、ちょうど冬至の日の出と夏至の日の入りを結ぶ二至のラインとなっています。

先に挙げた法然寺の二至ラインとは逆になりますが、その意味は同じで、一族の繁栄を願ったものと考えられます。

霊芝寺 本堂

現在の霊芝寺は真言宗だが、頼常と頼恕は儒教式の墓所となっている。

霊芝寺 高松城 レイライン

霊芝寺と高松城は冬至の日の出と夏至の日の入りを結ぶ二至のラインで繋がる。間には特徴的なランドマークが連なっている。

 

讃岐国高松藩の初代藩主・松平頼重が行った高松藩における寺社整備とその背景に込められたおもいは、高松松平家の歴代藩主に脈々と受け継がれ、現代にもその痕跡を残し、高松の繁栄の礎となっています。

 

【「霊芝寺」 地図】

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この記事を書いた人

聖地と呼ばれる場所に秘められた意味と意図を探求する聖地研究家。アウトドア、モータースポーツのライターでもあり、ディープなフィールドワークとデジタル機器を活用した調査を真骨頂とする。自治体の観光資源として聖地を活用する 「聖地観光研究所--レイラインプロジェクト(http://www.ley-line.net/)」を主催する。