本堂前が広く取られていて開放感が魅力の87番札所長尾寺。広場と呼んでは失礼があるかもしれませんが、それゆえ戦前に全国各地に建設されたメディア機器「ラジオ塔」の設置場所に選ばれ、現代でも台座の遺構も見ることができます。
87番札所長尾寺の護摩堂前の台座
87番札所長尾寺の護摩堂前の台座には、
●何かが収められているであろう足高の箱
●台座の上に更に台座が築かれ祀られている地蔵菩薩
●源義経の妻である静御前が出家した際に剃った髪を納めた剃髪塚
があります。
この記事では、一番左にある「何かが収められているであろう足高の箱」について触れたいと思います。
ラジオ塔
何かが収められているであろう足高の箱の正体は「ラジオ塔」。正式には「公衆用聴取施設(こうしゅうようちょうしゅしせつ)」と呼びます。塔と呼ばれるほど高く建設される理由は、機器を地面の湿気から守るためと、高い位置から音声を発した方がより広範囲に放送が届くためであると考えられます。
ラジオ塔は戦前の日本において、そこに集まった人々へラジオ放送を提供することを目的として建設されました。日本で一番最初のラジオ塔は、社団法人日本放送協会大阪中央放送局によって昭和5年(1930年)6月に大阪市の天王寺公園に設置されたもので、ラジオ放送の魅力と必要性をより広く民衆に伝えるためのキャンペーンとして最も有効な手段とされたのが、人々が多く集まる場所にラジオ放送を試聴することができる施設を整備することでした。
当時はラジオ受信機自体が高価で、一家に一台の時代ではありません。また、ラジオ放送を聴くために聴取料が必要であったため、その普及のために当局によって様々な施策が行われました。そのキャンペーンの一案であるラジオ塔建設は娯楽所として民衆に広く受け入れられ、夏の全国中等学校優勝野球大会の中継が行われている時などは、放送に合わせて試合のスコアやカウント、ランナーの状況が野球盤で表されるなど大変なにぎわいを見せたようです。今でいうところのパブリックビューイングがラジオを頼りに行われていたことになります。
そのような当局による様々な働きかけや、戦争が始まり戦時政策や戦局がラジオによって発表されるようになると、ラジオ聴取は必聴事項になったことからラジオ受信機が家庭に普及し一家に一台の時代になります。ラジオ塔建設はより積極的に進められ、昭和18年(1943年)頃には全国の公園など450ヶ所以上にラジオ塔が整備されたことが記録されています。すなわち家の中でも外でもラジオ聴取で情報を取得するという時代になっていきました。また、国内のみならず当時は日本の施政下にあった台湾や樺太、東南アジアや南洋諸島等にもラジオ塔が建設され現地住民向けにプロバガンダ放送が行われました。
こちらの長尾寺に残されているラジオ塔ですが、四国内に現存が確認されている3基のラジオ塔のひとつだそうです。他は香川県三豊市と徳島県徳島市にあるそうなので、近いうちに機会を作って見に行ってみたいと思います。
長尾寺は堂宇前に大きな空間が広がっているのが特徴のひとつで、そちらでは例年1月に力餅大会が行われるなど参拝者のみならず民衆が大勢集まることができます。その「集まりやすい」配置は昔も変わらなかったでしょうから、長尾寺境内へのラジオ塔建設は、趣旨にたいへん合致したものであったと想像します。寺院でありながら参拝者だけでなく近隣住民の集いの場になっている点は、四国のお寺さんらしい微笑ましいエピソードであるように思います。
戦後は、テレビの登場に代表されるメディアの変遷により、ラジオ塔の多くは役目を終え老朽化などの理由により解体が進みましたが、こちらの長尾寺の旧ラジオ塔のように現存しているものもあります。ラジオ塔発祥の地である関西では建造数自体が多かったようで、公園などでの現存例が多数確認されています。
長尾寺がそうであるように案内看板などが全く無く「これラジオ塔だったんだ」という、世の中には我々が気付いていないラジオ塔がそこそこあるようですので、都市部の公園などへ行った際に不思議な形の燈篭などを発見した際は、それがラジオ塔であるかどうか調べてみるのも面白いと思います。
※同じ台座にある「剃髪塚」に関して、以下リンクの記事で詳しくご紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【87番札所長尾寺】源義経の愛妾「静御前」とその母「磯禅師」の得度と「剃髪塚」
【「87番札所長尾寺のラジオ塔遺構」 地図】