【65番札所三角寺→66番札所雲辺寺】愛媛県と徳島県の県境「境目峠」近くに立つ標石

愛媛県と徳島県の県境「境目峠」への古道登山口。その入口に標石が立っていますが、内容から中務茂兵衛のものではないようです。けれど施主名から、他方では中務茂兵衛標石を寄進している人物であることがわかります。

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境目峠 標石

境目峠古道登り口。下部が補修された標石が立っている

 

標石の正面に表記されている内容

境目峠 標石 正面

標石が立っている場所は国道192号沿い

<正面上部>
右(指差し)
箸蔵寺
雲邊寺

箸蔵寺(はしくらじ)…別格15番札所箸蔵寺
雲邊寺(うんぺんじ)…66番札所雲辺寺

愛媛/徳島県境の「境目トンネル」まで約500mの地点になります。
そのトンネルの開通は昭和47年(1972)なので、それまではここからヘアピンカーブが連続する山岳路になり、勾配を稼ぎながら標高381mの境目峠を越えていた。更にそれよりもっと前は、こちらの標石が示す方角へ進み境目峠へ向かって山道を登っていました。

阿波街道(伊予街道)経由境目峠…国道開通以前
境目峠…旧国道192号
境目トンネル…国道192号
新境目トンネル…徳島自動車道

境目峠 標石 正面下

補修された下部に「貮」の字が多く見られる

<正面下部>
(箸蔵寺)貮百拾町
(雲辺寺)貮里七町

石が折れたのか下部がコンクリートで補修され、その上から異なるフォントで距離が記されています。

一里…約4km
一町…約109m

「里(リ)」の方が大きい単位になりますが、遠い箸蔵寺の方を「五里二十町」とせず、全て小さい単位である「町(チョウ)」で表現している点が興味深いところ。考えられる理由としては百の位を表示することで「遠さ」を表したかったのか。この点は謎です。もっとも下部は補修されてのものなので、元々このような表記になっていたかどうかは分かりません。

「210町≒22.8km」…箸蔵寺
「2里7町≒8.7km」…雲辺寺
どちらもおおよその距離は合っています。

 

標石の右面に表記されている内容

境目峠 標石 右面

当エリアお決まりの行先群。奥の院仙龍寺は外せなかったことがわかります

<右面上部>
左(指差し)
三角寺
奥之院

背後のコンクリートブロックの建造物は、瀬戸内運輸(せとうちバス)の「七田(しちだ)」停留所。当路線の終点であり、ここから県を越えて運行される路線バスは現在は存在しません。
元々は国鉄バス「川池本線」として、予讃本線と土讃本線の接続を短絡するバス路線として、昭和9年(1934)年3月に川之江-阿波池田が開業しました。こちらのバスを利用して阿波池田駅で乗り換えることで「愛媛県」から「徳島県」はもちろん、南下すると「高知県」に行くことができました。そうでなければ、乗換のために香川県の多度津駅まで行くこととなり運賃・所要時間面でデメリットが生じていたため、当バス路線は一定の需要がありました。

昭和62年(1987)3月には四国旅客鉄道(JR四国)に継承。平成2年(1990)3月10日のダイヤ改正では9往復が運行されています。
しかしながら平成13年(2001)3月のダイヤ改正でJR四国バスが撤退。路線を継承した瀬戸内運輸も平成22年(2010)4月に廃止。国鉄バス川池本線に由来する、県境を越えて運行されるバスは全廃されました。現在は松山自動車道などを経由する高速バスが運行され、各都市から乗り換え無しで県同士の行き来が可能です。

今日、当停留所から運行されるバスは、朝7時台の上り(川之江方面)と夕方18時台の下り(七田方面)の一日一往復のみ。川池線が運行されていた当時は、距離がある箸蔵寺や雲辺寺登山口へ行くために巡礼者のバス利用があったようですが、現在は四国遍路とは縁の無いダイヤになっています。

境目峠 標石 右面下

こちらの情報は逆打ち向けの情報です

<右面下部>
(三角寺)貮里三十町
(奥の院仙龍寺)三里

「2里30町≒11.2km」…三角寺
「3里7≒12.0km」…奥の院仙龍寺

巡礼のストーリー的には奥の院仙龍寺へ行くのは65番札所三角寺を打ってからですが、逆打ちの場合その順序はどうなっていたのでしょうか。当時おそらく「奥の院仙龍寺へ行かない」選択肢は考えられません。距離が近いのは、先に奥の院へ行ってから第65番三角寺の順番ですが、どのようにしていたのか気になります。

 

標石の左面に表記されている内容

境目峠 標石 左面

20世紀始まりの年の春に建てられたことになる

<左面>
明治三十四弐(?)五月吉日

明治34年は西暦1901年。20世紀最初の年です。関連性があるかどうかはわかりませんが、そう遠くはない椿堂下にある標石と同年の建立。こちらの石の方が一ヶ月早い。
※椿堂下にある標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

【別格14番札所椿堂近く】愛媛県最東部に位置する内容盛りだくさんな中務茂兵衛標石

同年5月27日、山陽鉄道が馬関(ばかん、現在の下関)まで開通。これは東京から下関まで鉄道が繋がったことを意味します。山陽鉄道(現JR山陽本線)は明治21年(1888)の初代区間の開通から13年かけて全通を果たしました。

情報の種類でみると茂兵衛さんの標石そのものですが、「周防國大島郡…」の表記がどの面にも見当たりません。もしかしたら破損した下部にその情報があったのかもしれません。けれど最初期の石ならともかく、キャリア中期の標石で茂兵衛さんの情報を下部にまとめている石を見たことがありません。

「●●年■■月吉辰」は多くの中務茂兵衛標石で用いられている表現。けれどこちらの石は「吉日」。末尾の部分が丸っと補修した部分になるので書き換えられた可能性が考えられますが、やはりこちらは茂兵衛さんの標石ではないのかな、という印象を受けます。

 

標石の裏面に表記されている内容

境目峠 標石 裏面

施主の情報はやや薄れていて保存状態が良くない

<裏面>
施主
尾張名古屋市裏塩町
津田久三郎
妻 ギン

おそらく茂兵衛さんの標石ではないだろうなと思いかけていたのですが、こちら裏面を目にするとまたその可能性が浮上してきます。

尾張名古屋市裏塩町→現愛知県名古屋市西区那古野(あいちけんなごやしにしくなごの)1丁目付近
「香川県東かがわ市引田(ひけた)」にある中務茂兵衛標石を寄進した方と同一人物です。行先を二面に二行表記するデザインも同じ。
その石は明治31年(1898)11月の建立なのでこの石より3年半早い。こちらの方が古ければ茂兵衛さんと出会う前に立てたのかなと考えることができますが、古いのは引田の石の方です。
とはいえ四国八十八ヶ所の標石を建てるにあたり、茂兵衛さんを通じてじゃないと建ててはいけない等のルールは存在しないでしょうから、何らかの経験からこの場所に道しるべの必要を感じて、自主的にこの場所へ寄進されたのかなとも思います。

※東かがわ市引田の標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

【88番札所大窪寺→3番札所金泉寺】かつての港町の賑わいを想像することができるやや大きな標石

 

伊予/阿波國境の境目峠へ続く道

境目峠 旧遍路道入り口

境目峠の古道入口

峠を目指すお遍路さんは、先ほどの標石が立っている場所から国道を外れてこちらの坂を上がります。山道は少しだけで国道192号旧道に合流。そこから車道を進むと程なくして県境の「境目峠」です。峠には大正6年(1917)に徳島県三好郡が設置した県界石があり、國境の雰囲気を残す個人的にも好きな峠の一つです。

所要時間の面ではこちらの道を進まず国道の境目トンネルを経由すると、30分以上短縮することができます。

 

【「愛媛・徳島県境「境目峠」入口標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。