【76番札所金倉寺門前】山門前にたつ規格外の中務茂兵衛石柱[右]

中務茂兵衛の四国遍路を発展させた師僧の寺である76番札所金倉寺。茂兵衛さんと縁が深いだけあって通常は見ることができないような規格外の標石を門前で見ることができます。

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金倉寺門前 斜めに傾いた標石

門前の斜めの立ち姿の中務茂兵衛標石が印象的

※門前斜め立ちの標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

【76番札所金倉寺門前の遍路石】大先達「中務茂兵衛」が伝える四国遍路メッセージ

 

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり>

中務茂兵衛 写真

中務茂兵衛義教<なかつかさもへえよしのり/弘化2年(1845)4月30日-大正11年(1922)2月14日>

周防國大嶋郡椋野村(すおうのくにおおしまぐんむくのむら、現山口県周防大島町)出身。 22歳の頃に周防大島を出奔。明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝する事279回と87ヶ所。バスや自家用車が普及している時代ではないので、殆どが徒歩。 巡拝回数は歩き遍路最多記録と名高く、また今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とも呼ばれる。
明治19年(1886)、茂兵衛42歳。88度目の巡拝の頃から標石の建立を始めた。標石は四国各地で確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されている。

 

中務茂兵衛ゆかりの金倉寺

金倉寺 山門

76番札所金倉寺山門

76番札所金倉寺(こんぞうじ)は、中務茂兵衛が師事した「松田逡順(まつだしゅんじゅん/1822-1884)」が住職を務めていた札所で、明治10年(1877年)3月には度牒(どちょう、出家僧の許可証)を受けて「義教(よしのり)」の法名を授かっています。
その山門前にある大きな一対の標石は、どちらも中務茂兵衛の取次によって建てられたもの。この場所は正規参道であり正門に当たる場所ですが、現在この場所を通行するのは歩き遍路さんくらい。駐車場が寺院西側にあるため、多くの巡拝者はこの場所を通ることなく入山します。

 

向かって右の石・正面に表記されている内容

金倉寺門前右石碑

とても立派な山門なのに、これを目にするお遍路さんが少ないことが残念

<右の石・正面>
當山本尊薬師如来

76番札所金倉寺の本尊は「薬師如来(やくしにょらい)」
74番札所甲山寺(こうやまじ)から77番札所道隆寺(どうりゅうじ)の4ヶ寺では、本尊薬師如来が連続しています。

 

向かって右の石・正面に表記されている内容

金倉寺門前右石碑 右面

この時代の四国遍路界では珍しい東京の施主

<右の石・右面>
備中國浅口郡●●
施工 塚村●太郎
東京品川町北品川北濵
仝 金崎彦兵衛

備中國浅口郡(びっちゅうのくにあさくちぐん)→現・岡山県浅口市(おかやまけんあさくちし)周辺

香川県で見ることができる中務茂兵衛標石は、瀬戸内海を挟んで対岸に位置する備前國・備中國の施主による石が多いのですが、こちらもその例に漏れない形です。
「施主」ではなく「施工」となっているので、一般的な意味からすれば工事を行った人物のことを指しますが、左面(※後述)の内容がこちら両家の供養となっているので、ここでは施主と同じ意味かもしれません。

東京品川町北品川北濵→現・東京都品川区北品川2丁目付近

東海道の第一宿「品川宿(しながわしゅく)」があった街。「北濱(きたはま)」は目黒川を渡ると南品川となる境の地区。北品川2丁目にある「品川区立北浜公園」にその名を残しています。
「北品川」とついていますが、JRや京急(京浜急行電鉄)の品川駅より南側に位置する「北品川」。京急に乗車して南に一駅行くと「北品川駅」です。
これは元々品川と呼ばれた地区は現在の北品川・南品川であり、品川駅の場所が品川宿とは異なるためです。品川駅は住所においても「高輪3丁目」になります。

 

向かって右の石・左面に表記されている内容

金倉寺門前右石碑 左面

石が大きいので施主の経済力も大きかったのでは…と想像

<右の石・左面>

塚村氏
金崎氏
先祖代々菩提

右面で登場する岡山と東京の施工者が、一族の供養を行う内容。このことから「施工」とはなっていますが、一般的な石で見ることができる「施主」と同じ意味なのかな、と思いました。

 

向かって右の石・裏面に表記されている内容

金倉寺門前右石碑 裏面

ここに茂兵衛さんの関与が記されています

<右の石・裏面>
周防國大島郡椋野村
為臺百拾五度供養
周旋人
中務茂兵衛
當山現住職俊良代

中務茂兵衛「115度目/279度中」の四国遍路は自身46歳の時のもの。またこちらの石には、建立年度が記されていません。

通常の標石では「願主」となっている部分が、こちらの石では「周旋人(しゅうせんにん)」
斡旋者(斡旋者)、取り次ぐ者、を表す言葉なので、これも通常「願主」と記される立ち位置と変わらないものかな、と思います。

標石建立当時の住職・俊良氏は、茂兵衛さんの師僧・俊順氏の高弟。
茂兵衛さんは、四国遍路道中で知り合った人々の悩みを聞いては祈祷などを金倉寺へ取次ぐ役目を担った。そのことや巡拝に対する姿勢は、師である俊順氏からも賞賛されています。
惜しむべくは俊順氏は明治17年(1884)に他界。茂兵衛さんが四国遍路88度目を記念して標石を建てた明治19年(1886)には、この世に居なかったことが悔やまれます。

※対となる門前向かって左側の標石に関しては、以下リンクの記事でご紹介しています。

【76番札所金倉寺門前】金倉寺山門で見ることができる規格外の中務茂兵衛石柱[左]

 

【「76番札所金倉寺門前右の中務茂兵衛標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。