【43番札所明石寺→44番札所大寶寺】かつての番所付近にある独自規格の標石

43番札所明石寺から次の44番札所大寶寺に向かって鳥坂峠を目指す道中。かつて藩を行き来する旅人の取り調べを行う番所が置かれた「東多田」の集落に、地域の名跡や偉人などの情報が豊富に記載された独自規格の標石が残されています。

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東多田番所跡の標石 立地

街道と八幡浜への分岐点に立てられたと思しき標石で、右の石垣はかつての番所跡

 

標石の正面に表記されている内容

東多田番所跡の標石 正面

左右の指差しが翼のように見える正面が特徴的

<正面上部>
左右(指差し)
へんろ道

標石が立っている地点はT字路交差点。順打ちの歩き遍路は奥に向かって進んで行くので、まず目に入るのがこちらの面になります。

東多田番所跡の標石 正面下部

当区間は遍路道中第三位の長丁場

<正面上部>
菅生山へ十八里二十丁
明石寺へ二里十丁
寄付人●●

菅生山(すごうさん)→44番札所菅生山大覚院大寶寺(すごうざんだいかくいんだいほうじ)
明石寺→43番札所明石寺(めいせきじ)

43番札所明石寺から44番札所大寶寺の道のりは約75km。この場所は10kmほど来たに過ぎません。遍路道中では足摺・室戸に次ぐ第三位の長丁場ですが、前者らはそれほど峠越えが連続するということはなく、並行する鉄道や路線バスがあり距離こそ長いけれど心理的な安心はあります。
けれど当区間は隣の街へ行くのにしばしば峠越えがあり、並行する交通機関が存在しない区間があります。冬期間は雪が積もることもあります。宿泊施設が少なく随所に山越えがあるので、行程の区切りが難しい。こちらの石がある宇和町の辺りはまだそこまでのことはありませんが、内子から先は事前の情報収集や区切りを慎重に計画する必要があります。

 

標石の右面に表記されている内容

東多田番所跡の標石 右面

伊予の大洲は「おおず」と読みます

<右面上部>
北大洲町四里
南宇和町二里

大洲町(おおずちょう)→現・大洲市
宇和町(うわちょう)→現・西予市宇和町

藩政時代の大洲は加藤家が治めた城下町で、鳥坂峠(とさかとうげ)を越えた先に広がっています。そのルートとして現在は国道56号の鳥坂トンネルと旧来の鳥坂峠を越える古道がありますが、この箇所に関しては後者の峠越えがお勧めです。

鳥坂トンネル…距離は近く時間は短いけれど、交通量のわりに歩道が無く危ない
鳥坂峠…距離は長く高低差があり時間は掛かるけれど、静かで安全

大洲は大洲藩、宇和は宇和島藩。江戸時代は鳥坂峠が藩境となっていて、こちら東多田や鳥坂峠の登り口には番所がありました。

東多田番所跡の標石 右面下部

群雄割拠の戦国時代中期のエピソード

<右面下部>
山田薬師二里
きん高公七丁
●村天保●

こちらの標石の特徴として「上部」に広域情報、「下部」に近隣情報が記されています。
山田薬師こと西予市宇和町にある「善福寺(ぜんぷくじ)」は、「一畑薬師(いちばたやくし、島根県出雲市)」「永勝寺(えいしょうじ、福岡県久留米市)」と並んで称される「日本三大薬師」の一つ。厄除けや病気平癒に霊験あらたかな仏さまが薬師如来ですが、とりわけ山田薬師では眼病に効くとされています。
標石にこそ行先が記載されていますが、示されている距離の通り、この場所からはそれほど近いわけではありません。

きん高公→西園寺公高(さいおんじきんたか/1538-1556)
戦国時代中期に当地を治めていた西園寺氏の嫡男(ちゃくなん)。大洲を治めていた宇都宮豊綱(うつのみやとよつな/1519-1585)の急襲により矢を受けて討死しました。享年19歳。郷土を守るために戦いその若さで亡くなった武将を悼み住民らによって建てられた墓所では、今でも生ける花が絶えないほど地元で信仰されている存在。こちらの標石ではその存在と(ざっくりした)場所を知らせています。
鳥坂峠より南側に広がる宇和盆地の大部分を治めていたのは西園寺氏。峠の北にあり宇都宮氏が治める大洲盆地と平地で繋がっているわけではありませんが、間に鳥坂峠という山を挟んでも東多田に関しては宇都宮氏の勢力下にあった様子。宇都宮氏はその名の通り東国武士にルーツを持ち、鎌倉幕府を開いた源頼朝に地頭として取り上げられた一族。この場所の地名に源氏ゆかりの「多田」がついているのも、そこに関係しているのかもしれません。
宇都宮氏は1567年頃の毛利氏・河野氏の伊予出兵により。西園寺氏は1584年の長宗我部元親の侵攻と翌年の豊臣秀吉による四国征伐に遭い、それぞれ滅亡しています。

 

標石の左面に表記されている内容

東多田番所跡の標石 左面

かつて八幡浜は明治維新後の四国を牽引する存在だった

<左面上部>
左西
縣社八幡神社二丁
八幡浜へ三里

縣社八幡神社→現・岩崎八幡神社(いわさきはちまんじんじゃ)
八幡浜→現・愛媛県八幡浜市(えひめけんやわたはまし)

ここにも八幡浜への分岐が記されているあたり、その存在感は地域随一の存在といえます。標石がある場所はT字交差点ですが、石が指す方向に県道を進むと旧型標識と標石があるY字交差点から分岐してくる八幡浜新道と合流。鳥越峠(とりごえとうげ)を経て八幡浜へ行くことができます。

東多田番所跡の標石 左面下部

地域の信仰が記されているような感じですが、詳細は不明

<左面下部>
大くぼ観音半里
のぶつな公十丁

大くぼ観音→福楽寺(ふくらくじ)?
のぶつな公?

この石を見て存在を知ったのが大窪観音という寺院。町内にある福楽寺に祀られている十一面観音を指す呼称のようです。
のぶつな公は分かりません。松平信綱(まつだいらのぶつな/1596-1662)という江戸時代前期に活躍した大名がいますが、同氏の拠点は武蔵國(むさしのくに)なのでここでは別の人物なのかなと感じます。

中務茂兵衛標石だと記載事項に一定のルールがあり、その情報も四国遍路に特化した内容であることが大部分。そうではないこちらのような石はローカル情報が多く、解読難易度が上がります。

 

東多田番所跡

東多田番所跡

標石が立っている場所のはす向かいに立つ、石垣で囲われた家屋

古い家々が立ち並ぶ宇和島街道・東多田の集落ですが、こちらの家屋は少し趣が異なる雰囲気を持っています。

東多田番所跡の案内

勢力域や藩を越える往来を制限する番所が置かれた場所は、現在民家になっています

戦国時代の東多田は宇都宮氏(大洲)の支配下にあり、ここから南が西園寺氏(宇和)の所領地でした。ゆえにこの場所が國境であり、番所が設けられたものと考察します。
江戸時代の東多田は伊達家による宇和島藩支配地。ここには藩直轄の番所が設置されたとあるように、所領地最北の関所として最重要視していたことをうかがい知ることができます。

現在この場所には一般の人が住まわれているようです。

 

【「東多田番所跡の標石」 地図】

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この記事を書いた人

四国遍路案内人・先達。四国八十八ヶ所結願50回、うち歩き遍路15回。四国六番安楽寺出家得度。四国八十八ヶ所霊場会公認先達。 高松市一宮町で「だんらん旅人宿そらうみ(http://www.sanuki-soraumi.jp/)」を運営。